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マニ宝珠㉗ [小説「マニ宝珠」]

また、数体の遺体と幾つか鞄や荷物が散乱している。

ジュネイの指示で騎士たちは先を進み、

後に続く人夫たちで車列が通り抜けられる幅まで片づけて進む。

人夫頭が平然と手を伸ばして遺体の襟を掴んで上体を起こす。

近くにいた仲間を呼んで、足首を持たせると振り子の要領で放りあげた。

遺体の片づけを頑なに拒む者、気味悪がって尻込みする人夫もいるが、

多くは協力的で事もなげに作業をこなしていく。

ルナンサンも手を貸しているうちに、頼もしい人夫たちと打ち解けてきていた。

隊は順調に道を進んでいる。時間が経つにつれて、誰しもおかしなことに気付く。


「うむむ・・・おかしいぞ。進みだしてから何時になる? もう、着いていい頃合いだ」


焦りを見せるジュネイ。堰を切ったように、神殿騎士たちの間から同意見が挙がりだす。


「この視界の悪さです。慎重に進んできたつもりでも・・・道を誤った可能性も?」


アルマラカルへ続く街道は、疎らに広がる田園に通じる大小の農道と結んでいる。

農道と言っても作物を満載した荷車と、牛や羊の群れが脇をすれ違える程度に道幅は広い。

道標や立て看板などはないものの、遭難することなど微塵も考えていなかった。


何故なら誤って迷い込んだとしても、その先は農地に続いているのみで道が無くなる。

村や集落へ向かう道は一旦、メガロポリスを経て直結しているのだ。

つまり、街道を真っ直ぐに城を目指し、城壁の外角を眺めつつ沿道を経て行き来する。

この街道のどこで迷い込もうと農地ばかりで、道は袋小路で街道へ引き返すことになるのだ。


・・・筈なのだ。筈なのだが‥。


暗闇と不意に発生した霧の中でも、放置された馬車を辿っていれば問題ないと思われた。

方角に問題はないと報告した騎士が呼ばれ、

彼と共に再びコンパスで方位確認を行うジュネイらは驚愕する。

コンパスの針が明らかに、おかしな動きをするからだ。

回転した針は左に振れ、止まるかと思うと右に振れ続けたまま。

誰よりも驚いて狼狽えているのはコンパスを預かり、問題ないと報告した騎士である。

再び止まろうかと思えば、スーッと針はコンパスを預かる騎士へ向かって動く。

コンパスの挙動は見た者全てが不可解に思い、

何か仕掛けられているのでは? と考えるほど奇妙だった。

コンパスを任されたことは名誉であり、この騎士が悪戯で虚偽を報告をしたとは考えにくい。


・・・


騎士たちの後ろを付いていくルナンサンたちに、

霧で霞む漆黒の闇の先から、微かに漂ってくる風と共に土埃が運ばれてくる。


——く、臭い!!


ルナンサンは布で鼻を覆っていたのだが、それでもなお酷い悪臭が鼻をつく。

腐臭とも汚臭とも違う、強烈な獣臭さと‥薬品が焦げたような臭気。

気分が悪くなったルナンサンは、片手で鼻を覆って周囲を警戒する。

そういえば‥‥霧に包まれてからだろうか。

魔物は退いたというのに、未だどこからか漂ってきているようだった。


(これは、魔物の術中に嵌められているのではないだろうか・・・?)


そう思った時、再び恐怖が膨れ上がった。禍々しい記憶が呼び起こされていく。

募る不安感に居ても立ってもいられなくなったルナンサンは、

ジュネイの判断を仰ごうと思い立ち、駈け出すと急に足が竦んで転倒した。


――ッ、身体が‥いうことを利かない・・・!


本当に急な出来事だった。

膝の力が抜けて姿勢を崩し、そのまま前のめりで地面に突っ伏してしまったのだ。

すぐに起き上がろうとして、体が重い。何者かが背に負ぶさっているようだった。

一気に胃の中がせり上がり、呻いてルナンサンは嘔吐する。

薄っすらと感じていた違和感は今、はっきりと警鐘なのだと確信した。

周囲へ助けを借りようとするが、激しく動悸がして息が乱れ声が出せない。


「えぇ‥っ? 大丈夫ですかい・・・」


唐突に苦しみだしたルナンサンの様子を見かねた人夫が、

仲間を呼んで、一先ず指示を仰ぐために騎士が呼ばれた。

ルナンサンは言葉を発しようとするも、再び嘔気に見舞われる。

まるで、馬車を全速で走らせた直後のような酷い気分だ。

突然の事態に焦って、とにかく体を起こそうにも咽て、しばらく動けそうにない。

人夫の介助を得て、上体を起こしたルナンサンは胸倉に手を当て息を整える。

今も、みぞおちを拳で小突かれたような最悪の気分だ。

焦燥する頭で、何とかしなければと人夫たちを見渡すとおかしなことに気付いた。


(そんな‥‥。体の不調は‥、 ・・・ ・・・自分だけか‥‥?)


人夫たちに、やや疲れた素振りはあるが見た限り誰もいないようだ。

布や手で顔を覆う者はおらず、具合が悪そうな者も見られない。

不可解な事に気付くと、この突発的な心身の変調には身に覚えがある。


‥‥これはきっと、魔術に因る影響だ。


感じていた違和感は魔力か、既に魔法に掛けられたことに因るものか。

不意に膨れ上がる恐怖と、体が動かせなくなった事に加え、気分も悪い。

ふと微かに熱を感じて視線を落とすと、腕輪が鈍い光を発してるように視えた。

解った気がする。この腕輪の奇蹟は魔物を退けるような強力なものではないようだ。

メルチェコ司教の説明では、腕輪の所持者が念じるだけで奇蹟を起こすと言っていた。

神秘の護身具だというのが真実としても、今のルナンサンは使いこなせてない。

それでも、悪意ある魔法の有無を感知できるようになった。

・・・かもしれない。まあ、そうだとすれば本来は門外不出の聖具を、

旅路の安全のためと自分に授けてくだされたのも十分納得がいく。


人夫たちが平然としているのは何故だろうか?

魔物との遭遇を思い出そうとすると、う‥っ‥頭が・・・心が拒絶する。

姿をはっきりと見た記憶が・・・見た筈だが、断片でしか思い出せない・・・。

いや、魔物が向かって近づいてきた時、あの赤い眼だけは鮮明に記憶している。


(‥‥私は、あの時に精神に深い傷を負わされたか、呪われたやもしれぬ)


危険は承知の上で臨んだ任務。

セルジオに成果を期して意気揚々と出発したというのに‥‥情けないことだ。

前向きに考えるなら、この身をもって異変を感じ取る能力を得られたともいえる。

程なく、一人の騎士が従者を伴ってルナンサンの様子を確かめに来た。

従者がルナンサンの容体を診て、カシアの粉薬の使用を提案し騎士の許可が下りる。

薬を飲んで頭痛と嘔気は徐々に収まり、受け答えもできるくらいに回復した。

介抱してくれた皆へ礼を言うのもそこそこに、ルナンサンはジュネイの元へ同行を願い出た。


・・・


「・・・証明はできませんが、魔法に掛けられている気が致します」


意外にも、ジュネイはルナンサンの憶測の話を聞いてくれた。

特に疑うことも慌てる様子もなく、ジュネイは後ろに控える騎士らと協議する。


「脇道に入ったとして、こう当て所もなく彷徨う態というのも妙ではある‥‥」


騎士たちも困惑しているのだった。だが、ここで引き返すべきという提案は出なかった。


「二千歩を五度までは数えております。‥もう少し進めば着くのではないでしょうか」


隊の歩みを緩めて周辺を探らせつつ、現在地の手掛かりを掴む指示が下され、

従者たちが後方の人夫らの歩みを緩めるよう伝令に走っていく。

一先ずジュネイは隊の方向転換で起きうる混乱を避け、"警戒態勢" を取った。

果たして、探らせていた騎士から一報がもたらされる。


「この先へ進んでいくと南の墓地に行き当たる。柏槇の木と慰霊碑も確認された」


つまり、『イクアークヴァラビーヤ(隻眼の狼)の墓標』で間違いない。

且つて侵攻してきた朱国がメガロポリスを包囲した際、ここに陣幕を張った、

"ガルミア・マハーラーナー・イマンダリ" 将軍を討ち取ったとされる場所だ。

由々しき事に・・・アルマラカルへ続く本道から西の脇道に逸れて、

さらに離れた農道を進んで、メガロポリスへ逆走していた事も明らかになったのだ。


逼迫した状況にジュネイたち騎士が対応を考えあぐねているところへ、騒ぎが起こる。

荷車から取り外した側板を担架代わりに狂女を縄で括りつけて運んでいたのだったが、

不意に首を振り乱し、激しく暴れた弾みで地面に頭から落ちて、息絶えてしまったという。

一時は騒然としたが騎士からは放棄を許されたので、

担ぐ煩わしさから解放された人夫たちはむしろ喜んでいた。


「とにかく、後戻りして結界を目指すよりも一旦、本隊と合流を目指しましょう」


騎士たちの意見が一致し、隊は墓地へは入らずに、本道へと戻る。

墓地へ続く一本道であるから、必ず本道である街道に出られる筈なのだ。 ・・・筈だった。


「どういうことだ!!」


先程は墓地の南側で、今度は墓地の北側に出てきてしまっていた。

騎士たちは苛立ち、ルナンサンと人夫たちにも困惑と、些か疲れが見えてきた。

これは確実におかしい。墓地の外周に道は無い。墓地の北側に出ようと思ったら、

墓地内を通り抜けるか街道に出たうえで、北側へ通じる脇道に入っていく必要がある。

先程は墓地の南側であったのをルナンサンも確認している。

全員が見間違えるなんてことはあろう筈もない。

騎士からは探索範囲を広げて、本隊と連絡を取ることを試みる提案も出た。


「狩りをする獣は、獲物に覚られぬように付け狙う・・・、

 群れから外れた獲物は格好の餌食として、第二に弱った獲物を狩るのだ」


とても危険だとしてジュネイは認めず、墓地の方を向く。

皆が心に抱きつつも、言葉にすることを躊躇っていたことであった。

ここに迷い込んだのは偶然ではなく、誘い込まれた・・・とすれば。


「魔法には幻を見せたり、方向感覚を狂わせる術があると聞いたな・・・」


おそらくはセルジオ殿の騎士たちが遭遇した魔物か、別の魔物の出現。

或いは、城を覆う結界を張った張本人の可能性をジュネイは考えていた。


「疲労困憊し、隊の気が緩んだ間に攻撃を受けて統制が乱れれば、脆い」


だが、このままでは埒が明かない。

彷徨い続けるより脱出の手掛かりを探るために、墓地へ踏み込むことに決まった。


「もう日が沈む。本隊も我が隊の行方が知れないことで、対応を迫られておろうな・・・」


神聖な教義を修めた神殿騎士といっても、魔物と魔法の戦闘は皆無だ。

加えて実戦の経験も乏しい貴族の子息らであるが、これ以上は手を拱いてはいられない。

ジュネイたち神殿騎士は意を決し、臨戦態勢を整えさせた。

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マニ宝珠㉖ [小説「マニ宝珠」]

у‥ぅOuhゥ…うâarrウоゥOuhうУ…ゥwooうゥhゥоウaarrr…


張りつめた静寂を破って、暗闇から獣の咆哮のような呻き声が聞こえた。

不穏な気配に従者たちは動揺を見せたが、すぐさま号令が掛かる。


「臆すな!訓練通りに隊列を組んで、敵の襲撃に備えを固めよ」


騎士の指示で、五名の従者たちが前へ進み出て横に並ぶ。

盾を構えて防御姿勢を取る従者たちの隊列の背後に、

武器を構えた神殿騎士が立って、防御を固め臨戦態勢を完了する。

他の従者は預かった角灯を吊り下げた竿を地面に立て、

松明を掲げて周囲の警戒を行う。万全の態勢をとる。


沈黙を破って、前方に何か動く気配がこちらへ向かって近づいてきた。

正体が判然としない朧な人影が、ゆっくりと現れる。


「止まれ!何者だっ」


人影は隊列の五歩くらい手前で無言で静止し、ユラユラと体を揺らす。

それがまだ魔物と確信が持てないルナンサンは、固唾を飲んで見守る。

どう対処するか‥‥騎士たちも相手の出方を窺っていると、


――WOOオォオuhォオオOOuhォォォrrr!!!


突然、身の竦むほどの雄叫びを発して、腕を上げて駆け寄ってくる。


「攻撃!」「斬れっ」「かかれっ」


驚いて身を竦めるルナンサンに対し、

騎士たちは各々の号令を合図に剣を突き出す。

盾に突進を阻まれた狂人は剣に刺し貫かれて動かなくなった。


「気を緩めるな! 新手が来ているっ」


倒した相手の正体を確かめる間もなく、二つの人影が近づいてくる。

今度は念のため、人影に呼びかけてみるが応答はない。

先程と同じく前方で静止すると突然、二体の人影は奇声を上げて迫り来る。

騎士たちは十分に引き付けて、これも見事に倒した。


他に動く物の気配が消えたところで、

倒した人影の正体を確かめることになった。

一人は男、身なりから男は行商人だろう。女が二人。

女の方は近隣集落から、毎週やって来る野菜売りだった。

皆が、彼らの顔を覗いて言葉を失う。

ルナンサンも好奇心に抗えず、顔を見て‥すぐに後悔した。

男は顔面が歪んでいた。激しく地に打ちつけたのであろう‥とても見るに堪えない。。

初老の女は血の涙を流していた。

顔中を掻きむしった痕跡に加えて、自ら目を潰したらしい。

もう一人は頭を激しく掻きむしったらしく、

乱れた髪に血がこびり付いて、その顔は‥‥‥嗤っていた。


「魔物の仕業か・・・魔術で気が触れた‥ということだろうな」


発狂‥‥ルナンサンは背筋が凍る思いだった。

あの時、マデュークが魔物へ一矢報いていなければ自分もこうなっていたのか。


「ひィ!」「うわあああああああああ!!」「っう? ‥えぇ・・・」


従者たちが遺体を沿道に運び出そうと、手足を掴んだ瞬間に事件が起きる。

遺体の頭部、首から上が突然に破裂したのだった。

幸いにも傷を負った者はいなかったが、

運悪く、肉が弾け飛ぶ一瞬を目の当たりにした二名が一時 錯乱してしまった。

騎士の一人が持ち物から蝋燭を取り出して火を点け、二人に見せる。

揺らめく炎が気を落ち着かせるのに高い効果があるのだ、と後になって聞いた。

爆発も魔術によるものなのかは分からない。

未知の脅威を目の当たりにして、騎士たちに状況を不安視する者が現れる。


「ジュネイ殿、この場は危険です。一旦後退しましょう」


騎士の一人が年配の騎士に進言した。

ジュネイと呼ばれた、この先遣隊を指揮している年配の騎士は、

神殿騎士の名に恥じるような言動は慎むよう叱咤する。

続けて、邪悪な存在の征伐こそ神殿騎士が臨む聖戦だと励ました。

人夫たちに報せは届けたか、伝令を務めた従者に問う。

問われて従者は、もう直にやって来るでしょうと力強く答えた。


「うむ。もう少し待つ。合流後ただちに周囲を警戒しつつ作業を・・・」


「‥‥ん・・・?」


再び異変を感じ取って、皆が暗闇を凝視する。

濃い霧で霞む道外れから、複数の呻き声が聞こえてきた。


ぅゥゥУ…うぅぅwooぅぅォォぅuhぅぅぅrrroオぉぅу…ぅOuhぅゥゥゥ・・・


荒野に吹き荒ぶ風が唸るような、ルナンサン達は不吉な気配に包まれた。

幸い、道と畑の間には所々に柵が設けてある。

畑の方から続々と現れ、ユラユラと歩んでくる黒い影。

人影に向かって誰何してみるが、やはり応答はない。

待ち受ける騎士の一人が柵の手前に進み出て、人影を挑発した。

人影は彼に襲い掛かったが、柵に阻まれ前のめりに体勢を崩す。


「いいぞ。皆、斬りかかれっ」


数は多かったが、騎士たちは冷静に次々と魔物を斬り倒していった。





魔物の気配が無くなった頃合いで、忙しない雑踏が徐々に近づいてくる。

こちらの呼びかけに、複数人の応答と口笛が返ってきた。

これに反応は様々であるが、張り詰めた空気が和んでいく。

坐国出身ならば説明不要。求愛する鳥の囀りを真似た、異性を誘う口笛である。

緊張感のない、場違いな雰囲気に皆の気が緩んだ。


「う、わあっ」


――WOOオoâarrrォォオオ!!!


叫び声で驚いて振り向くと、

生気のない無表情の男が従者に掴み掛かっている。

農夫らしき男は不意に、口を開いて従者の腕に咬みつこうとした。

振り解こうとしていた従者は咄嗟に、もう片方の手で男の顔を押さえる。

騎士が助けに入り、男を後ろから羽交い絞めにして従者から引き離す。

尚も暴れる男に手を焼いた騎士は、止む無く斬り倒した。

もはや休んでいる暇はない。

ここが正念場だと、ジュネイは任務の続行を告げて、

後続の進行を再開するようファフロベティウスへ伝令を遣った。


「奮起せよ。神殿騎士が邪悪な者らに後れを取ってはならぬ」


隊列を組んでいる間にまたしても、

前方から同様の異様な気配を持つ人影が近づいてきている。


「結界はもう目の前だ。一般民の前で我ら騎士が無様を晒せようか」


前に進み出たジュネイは唸り声をあげて近寄ってきた女を拳で殴った。

よろめいて倒れた女を待ち構えていた従士が抑え込んで、

縄で縛りあげてしまう。なんと、生きたまま捕縛に成功したのだ。


「おおっ。お見事!」


思わずルナンサンが賞賛の声を上げた。

魔物だとしても、女性を斬らなかったジュネイを他の騎士も褒め称える。

ジュネイの武芸と気概に、若い従者たちは羨望の眼差しで拍手を送った。

そこへ続々と人夫たちが合流し、直ちに作業指示が出される。


「道に転がる遺体を全て片づけよ。尚、魔物が化けていることがある」


ざわつく人夫たちをジュネイは構わず、細心の注意を払うように求めた。

人夫たちは気味悪がるも、一振りの鎚矛が貸し与えられると、


「ヒょお~♪」「でっデーン!わはははっ」


勇躍して鎚矛を頭上に掲げて粋になり、恐いものなどなくなった。


「前進だっ」


ルナンサンと騎士たちは死体を踏み越え、結界の解除へ挑む。

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マニ宝珠㉕ [小説「マニ宝珠」]

不吉な気配に先へ踏み込むのを躊躇い、足早に来た道を戻った。

早々に戻ってきたルナンサンたちを見止めて騎士が声を掛けるが、

声を掛けられた騎士がそれに答えることなく、

撤去作業を指揮している年配の神殿騎士に会って対応を協議する。


この年配の騎士は聖堂が代々神殿騎士隊の隊長付きの帳簿係に任じ、

軍務の経験豊かで賢明な判断を下せることから、セルジオとも親交が厚い。

ファフロベティウスと同じく、輔祭(助祭)として聖堂の祭事にも携わる傍ら、

平時にあっては若き神殿騎士の礼儀作法と要人の警衛指導も務めのうちだ。


引き返してきたルナンサンたちから具に状況を聞いた年配の騎士は、

自身の従士を呼んで直ちに周辺を監視している騎士を呼び集めるよう指示した。

続いて警護の騎士の従者にファフロベティウスへ応援を請う使いに遣ると、

手を休めている人夫たちを招集してルナンサンの任務に同行をしてくれるという。

感激して礼を述べるルナンサンへ、年配の騎士は笑って励ます。

任務を達せられる見込みがでてルナンサンは希望が湧く‥が、事態は急変する。


しばらくは何事もなく進んでいたところ、急に霧が立ち込めだしたのである。

初めに通った時は靄が薄っすらと視界を遮る程度であったのに‥‥。

ファフロベティウスから警護を任じられた騎士の従者が先導していたのだが、

先程と様子が異なることに気付いて、年配の騎士に状況を説明していた。


「静まれぃ! 騒がしいと急な敵の接近に気付くことができぬ」


人夫たちの動揺を察した年配の騎士は自ら先頭に立って鼓舞すると、

若い騎士らに戦闘態勢を取るよう指示し、隊列の側面を固めるよう命じた。

先導を任された騎士と従者は角灯の灯りを暗闇に向けて、

少しでも先が視えるように努め、前進を続けていると微かに死臭が漂ってきた。

程なくして車に繋がれたまま死んでいた驢馬の現場に着いた。

濃い霧と暗闇に光は遮られ指示が行き届かず、味方の位置が目視できなくなっている。


「先ずはこれを片付ける。この先も車が塞いでおるから直ちに取り掛かれ」


おうっと人夫たちの中から一際 大きな声が応え、

哀れな驢馬の死骸から輓具(ハーネス)を取り外して、廃車から引き剥がした幌で覆う。

俄かに駆り集められた在監者たちであるのに、訓練を受けた軍隊の如くまとまっている。

指令者の下達から機敏に行動している様は、ルナンサンも驚嘆するばかりだ。

作業の指示と指名による役割分担の意思疎通が成されており、

ルナンサンも協力して手際よく車体に縄が掛けられ、

横転した車を引っ張り起し、驢馬の死骸と共に道の脇へ寄せた。

一連の作業が済むと車に火が点けられ、隊列を整えると再び前進する。


(うむむ。先ほどから冷えてきたような‥‥)


暗闇に加え、霧のせいなのか寒気を感じる。特に悪いことに視界が全く利かない。

本来この辺りは麦畑と、集落に続く脇道が延びる長閑な田園の景色を眺められるのだ。

これまで幾度か野宿など平気であったし、闇夜に恐怖はなかったのだが‥。

灯りを持って幽かに動く人影と、前を歩く仲間の背中を頼りに付いて行くしかない。

それでも耳を澄ますと、人夫たちが交わす話し声で不安を感じずにいられる。

この不穏な状況にも気味悪がる様子はなく、人夫たちは雑談を交わす余裕があった。

特に快活で人当たりがいい大男が仕切ってるらしく、声も大きいが度胸もあるようだ。

人夫頭を任された彼と、彼の友人らが他の者たちを良くまとめてくれている。

彼らのような頼もしい協力者と共に大勢で行動していることと、

騎士たちの警護まで付いているのはとても幸運だろう。

しかしルナンサンにはセルジオの騎士たちを手玉に取った魔物が気にかかる。

いつまた暗闇に紛れて襲撃されるかもしれない。

彼らの豪腕をもってしても、恐慌の魔術は平静を保つのは困難だ。


ルナンサンが常に周囲を気にしていることに気付いた年配の騎士が、

魔物について尋ねてきたので、戦闘で見た魔物の特徴を事細かに話し、

自分が戦いに不慣れで歯痒い思いをした苦しい心の内を明かした。

年配の騎士は、聖具の奇跡は殺傷の力を現わさないと指摘する。


「奇跡を行使するには聖具に込められた霊力を解放して、
 先兵となる者達へ祝福や加護を祈願するといった尻持を担います」


魔性の誘惑や呪縛から所持者を守るほか、悪霊を寄せつけず穢れを浄化する。

ルナンサンは腕輪に魔物を倒す思念を込めたが、それは大きな勘違いだ。

年配の騎士の言葉でメルチェコ司教に教わったことを思い出した。。

また集団戦は有能な指揮官であれど、味方が予期せぬ行動を取ったり、

想定外の事態で悪い状況になった場合の対処が難しくなると戒められた。


「脅かすつもりではないが‥」


話を聞いた年配の騎士は魔物の特徴は残忍で、

猟奇的な趣向を好む者ほど目を付けた相手を倒すまで執拗に狙うだろうと。


「魔物は狩りの妨げになる貴殿を疎ましく思っておるだろう」


次に魔物に出くわしたら、一目散に逃走するようにと指示を受けた。

アキューロにも同様の注意を受けていて、二度目の忠告である。


「心得ました。肝に銘じて、用心しましょう」


頷いて、警護をよろしく頼みますと頭を垂れるルナンサンの声が少し震えた。

‥‥不甲斐ない。

いま引き出せる腕輪の力では魔物をほんの僅かの間、怯ませるくらいしかできぬ。

正直なところ‥メルチェコ司教はなぜ自分に腕輪を託したのか‥?

素人の自分でも扱えることは確かだが、腕輪の神秘の力を過信していた。

神聖術を学んだことのない自分より、聖堂に適任者がいるだろう。

神殿騎士隊にも有能な若者も多いはず‥‥。

聖具の取り扱いが下手なのか、信心が足りていないのだろうか?

せめて、結界は必ず破って司教の期待に応えなければ‥‥。

上手くいくかどうかではなく、やり遂げなくてはならない。

心に決めてルナンサンは気を奮い立たせた。





車列が通れるように散乱する衣服や荷車を退け、何事もなく作業は済んだ。

あと少し。何事も無ければ、もう半刻も掛からねぇ。

城と外界を隔てる魔法の障壁 "晦冥の結界" とやらは目前だ。

メガロポリスの無宿者らは荷負いなど急募の労働力に買われる。

しかし毎度 需要があるわけもなく、多くの者は掻っ払いや喧嘩、違法賭博にイカサマなど、

単純で生きていくことに不器用であるが無頼者というわけではない。

城の防衛に一役買うこともあるが、今回は城を出なければ真っ先に飢えてしまうところだった。

任務達成の暁には、報酬も約束された。乗らない手はなかった。

それに魔法をこの目で見れるかもしれないって話だ。面白そうじゃないか。

命の危険を感じたら? そりゃな、全力で逃げればいいだけのことだ。

城を包み込んで陽光を覆い隠す大魔術。悪の魔法使いに挑む壮大な叙事詩。

俺は勇者として生涯、いいや。末代までも語り草になろう。

まぁ適当に結婚できて市民権がもらえりゃ、こんな生活ともおさらばだ。ツイてるぜ。





奥へ進むにつれて様相はさらに緊迫の度を増す。


「ううむ‥よいか、これはただの霧ではない。皆の者、気を強く保てっ」


もはや見通しが悪いなどという状況でなく、全く視界が利かないのだ。

いくら松明をかざそうと、暗闇と濃霧で灯りが届かぬ。

目を凝らしてみても隣に立っている仲間の顔色さえ窺い知れない‥‥。

危険を感じた騎士が次々と馬を降りる。

とうとう呼子笛の合図で行進停止の命令が出された。

次いで、隊列側面を警備している騎士たちに集合の合図が掛けられる。


「気を抜くな!この先はもっと危険だぞ」


角灯を腰に吊り下げた年配の騎士は一喝、

先頭に立つと隊が整ったのを確認して、休むことなく先を急がせた。





やがてルナンサンたちはこの先に結界があると思われる、

放棄された馬車が連なっている問題の場所に戻ってきた。

ここでルナンサンも先程と違う異質な気配に満ちているのを感じた。

緊張が高まっていく。

急に不安で居た堪れなくなり、まるで生気が抜けていくような気怠さを覚える。


「皆よいか。邪魔が入れば、我ら神殿騎士が相手をする。決して作業の手を休めるな」


この異様な雰囲気に年配の騎士も怖れを抱いた。

ここで応援を待つのは危険だと判断し、早急に車を撤去するよう人夫へ号令をかけた。

松明も角灯の灯りでさえ霞んで、足元も覚束ない。

視界が利かぬので、騎士たちは人夫たちの近くに居て警護に当たらせ、

従者らに松明を持たせて作業を手助けさせる。

作業する者の手を灯りで照らし、人夫たちは結束して事に当たった。

人夫の中には作業中にも無駄口を利く者がいたが、ここに来てから押し黙ったままだ。

幸い人夫たちは冷静に作業を進め、早くも一台目が取り除かれた。

用心のためルナンサンは作業の手出し無用と命じられた。

気を揉んで見守っていたものの、二台目の撤去は何ら問題も起きずに作業が済んだ。

指示を受けて、馬車に火が点けられる。


(燃え盛る火が、今日ほど心安らぐことはなかったな)


熱と明かりは焦燥を消し去り、陰鬱な気分すら晴らしていくように感じた。

一同は安堵の表情を見せ、人夫の中には路端に腰を下ろして休憩をとる者もいる。

些か拍子抜けしたのは年配の騎士も同様で、気を緩めた彼らを咎めることもない。

周囲の微かな音や異変も逃すまいと気を張っていた騎士たちと、

ルナンサンも拍子抜けして脱力感を覚えたくらいだ。

人夫たちには小休止が取られた。

パチパチと爆ぜる火の粉が舞い上がるのを眺めていたが、

騎士たちに整列の合図とルナンサンに出発の声が掛かる。

向こう側の様子が分からないが、前方から微かに風が吹いているのを頬で感じる。


「しばらくすれば本隊もここへ到着する。
 皆はファフロベティウス隊長を出迎え、閣下の御指示に従うように」


年配の騎士は人夫たちを前に、集団から逸れる行動が特に危険であるから、

何が起きても散り散りに動いてはならないと警める。


「これより、我ら神殿騎士は先行して結界を解きに向かう」


人夫たちの監視と護衛に騎士と従者二人を残して、ルナンサンらは前へ進む。





(‥‥ううむ‥酷い臭いだ‥‥‥)


前方から吹く風に乗って、不快な悪臭は強くなり、吐き気を催す者も出てきた。

ルナンサンはスーサンが用意して持たせてくれた腰鞄の中に、

塩や石鹸の粉が入った幾つかの小瓶の中から香水瓶があるのを発見した。


(スーサンにはいろいろと気付かされたり、助けられてばかりだな)


今まで腰鞄を開ける機会は無かったから、

何かと気を回すスーサンの性格に少々困ることもあった。

ルナンサンは感激して胸が熱くなる。


円陣を組んで進んでいることもあって騎士たちは努めて冷静だが、

人夫たちを引き連れていたら怖気づく者も出たかもしれない。


「うわっ」


先導していた従者の一人が何かに躓いて声を上げて倒れ込んだ。

倒れた従者を助け起こそうとした者のさらに驚いた声で、空気が一瞬で張り詰める。

それと同時に一斉に飛び立つ無数の翅音が、怒り狂ったように唸りを上げた。


(‥予想はつくが‥‥とても嫌な予感しかない‥‥)


大きく肥えた蝿が飛び交う。

耳や目に入らないようルナンサンは まとわりついてくる蝿を払った。


 ‥ …゛ ‥ブブ…ブ …ブフ゛ …-ン … ブブ…ブ-ン …ブ …


霧と暗闇で前方が見えない状況は変わりなく、

状況を窺おうと灯りを持った全員が前へ出て、照らされて見えたものに愕然とする。


「‥‥こ、これは酷い‥‥‥」


照らされた目の前の光景に皆が言葉を失う。

灯りが届く範囲だけでも折り重なって事切れた数体‥さらに先も人が倒れている‥!


「誰か!生きている者はいないかっ‥‥」


従者が何人かを調べてみたが、息絶えていることを確認した。


「‥もうよかろう。この付近で生きている者はおるまい‥‥」


戦慄した。誰もが呆然と立ち竦んでいたが、


「死体を片づけねばなるまい。至急、応援を呼びに行ってもらう」


さほど距離はない。

従者が一人 選ばれ、直ちに使いに走っていった。

待っている間に年配の騎士は皆へ死体を片づけるよう指示が出されたが、

ここでルナンサンの思いも寄らないことが起きる。

一部の神殿騎士は命令は承服できないとして従わず、

人夫たちに仕事をさせるべきだと言って頑として動かない。

彼らは従者にも貴族に相応しくない仕事だと、手を貸さぬよう指図した。

拒否した騎士はファフロベティウスが警護に付けた騎士と従者を含む数名だ。

嘆息して年配の騎士は彼らに作業中の警備を命じて、ルナンサンにも協力を求めた。

他の神殿騎士は彼らの従者も共に死体の片づけに加わった。


聖職者が死骸に触れることは教義で禁じられている。

神殿騎士も教会に所属する聖職者の一員であるから分からぬではないが‥。

ルナンサンも、真新しい人の亡骸を掴むことに抵抗を感じないわけではない。

僧籍でも貴族でもないルナンサンは疑問や迷いを払い、意を決した。

だが、屍体を素手で掴むことは衛生の面で不安がある。

騎士たちは手甲や獣革の手袋があるので問題ないだろうが‥。

布巾か何かないかと腰鞄を探ると、ミトン(鍋つかみ)が入っているではないか。


(おおおっ。スーサンは本当に気が利く男だ!)


大いに励まされたような心持ちで、スーサンの用意してくれたミトンを手に作業に加わった。

四半刻を過ぎた頃か。

馬に遺体を乗せて運び、二名で力を合わせて道端の畑に降ろす。


「 ―――!‥―ぅわあああああっっ」


淡々と続けられる作業の静寂は、突然の絶叫で破られた。

悲鳴が確かに聞こえた。皆、一瞬で手を止めた。

暗闇から人の気配が、大声で泣き叫びながら一目散に走ってくる。

その者はこちらの灯火を目掛け、

抜剣した騎士たちに物怖じすることなく、駆け込んで‥倒れ伏した。

動転している彼を介抱した者が、応援を呼びに使わせた従者だと告げる。


「‥ひ、人が‥! ‥し‥死人が歩いっ、‥ぉお大勢で!!」


何事か問う前に、彼は震える手で後ろを指さした。

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マニ宝珠㉔ [小説「マニ宝珠」]

2022-03-30 加筆と、ちょい修正しました。<(_ _)>

「干し鱈とジャガイモのオーブン焼き」 ヤマハ発動機
https://note-marine.yamaha-motor.co.jp/n/nd74fb969dfbd



馬の嘶きと馬車が動く音でルナンサンらは喜びに沸く。

道を塞ぐ障害物が取り除かれ、車列は再び動き出したのだった。

外の慌ただしい物音に混じって、聞き馴染んだ声がする。

アキューロとザヒムが戻ってきたのだ。

隊員の点呼が済むと、報告も手短に各々馬車に乗り込む。


「身体を冷やさないよう、これを渡しておく。酔ったり寝るんじゃないぞ」


仲間の騎士が差し出した小瓶を、ザヒムは嬉しそうに口を付けた。

体格が良いザヒムは幌の中は窮屈な御者台に着き、

ルナンサンを乗せた車は前を進む車列に続いて動きだした。

幌の中で騎士たちは健闘を称えあい、魔物との再戦に意気込んでいた。

あの激闘を陽気に話すメガロポリスの騎士は頑健で、とても頼もしく思う。


ルナンサンはこれまで起きたことに思考を巡らせる。

手練れの騎士が束になって掛かっても、魔物は余裕を見せた。

もし次に二体以上の魔物と出くわしたら、おそらく死‥‥ううむ。身震いしてしまう。

と、ここで疑問が湧く。魔術士は何の目的で魔物を放ったか。

メガロポリスの金品や宝物が目的なら、

魔物を城に放って殺戮や破壊など好きにやらせて圧力をかければよい。

しかし魔術士がこの地を支配する目論見なら、栄誉を重んじるセルジオら騎士は決して屈しない。

他国の侵略にやむを得ず降伏ならともかく、人外の魔物になど屈服しないであろう。


‥だが、あのような魔物を大勢引き連れているのであれば。

(私が魔術士ならば、城に攻めかかり総督府へ乗り込もうとするかな)

そうだ。セルジオの予想通り、魔物の数はきっと多くないのだろう。

そうでなければ、城を囲う大掛かりな檻など用意する必要もない。

アルマラカルの援軍を引き連れて戻り、女子供を結界の外へ退避させるか。

出来得ることなら領内に潜む魔術士を、セルジオたち騎士が見事に討ち破れば解決する。

或いはルナンサンらが結界の外に出た時点で、敏い魔術士は断念するかもしれぬ。

今は一刻も早くクルルゥクに入らねばならぬ。

新手の魔物と遇えば戦闘になるのは避けられまい‥‥正直、恐ろしい。

手負いの魔物が仲間を連れて襲ってくることも考えられる。

つまり、結界の外に出るまでが勝負どころなのだ‥‥。


車列はとてもゆっくりと、道端に放棄された馬車が炎に包まれる様子を横目に進んだ。

炎が周辺を明るく照らすのは良いのだが、幌の中に入ってくる煙に皆が咽ぶ。

それも暫くの間で、立てられた松明を頼りに暗がりを進む。

疲労から睡魔が襲うが、軋む車輪の物音と平衡を保つので心身とも休まることはない。

やがて一時ほど進んだかどうかというところ、車列がまた停まってしまう。

先行している人夫たちによる障害物の撤去作業は続いている筈で、

作業が難航しているのかと話しているところへ、先頭へ来るようにルナンサンが呼ばれた。


「ファフロベティウス様の命により、ルナンサン殿をお連れ致します」


再び相乗りになるため、しっかり捕まるようにと念を押された。

騎士の背中に額を押し当てて腰にしがみつくと、身構える。

合図を送ると、掛け声の次には風を感じると共に、馬の背の躍動に合わせて体が弾んだ。

鞍がないので翻弄される体を支えるのに懸命で、眠気もすっかり吹き飛んだ。

騎士はルナンサンに気を遣ってくれているので、

振り落とされる心配よりも別の事が気がかりだった。


(うむむ。いよいよ結界の近くまで来たのかもしれない‥だとすると)


ファフロベティウスを始めとした人夫たちの見守る前で、

腕輪の力を開放する‥‥のだ。‥そう思って、みるみる体が熱くなっていく。

腕輪に触れてみる、‥特に反応はない。急に強い不安に駆られた。

先の戦闘で腕輪の力を引き出したのは咄嗟の事で、無我夢中であったから‥よく覚えてない。

ルナンサンは重責を担う緊張感から呼吸が苦しくなり‥足が、全身が震えだす。


「申し訳ない。馬を飛ばし過ぎたようですね‥‥」


よほど具合が悪く見えたのか、案内する神殿騎士に介抱されてしまう。

背中をさすってくれる赤い襟巻きをした若い神殿騎士には見覚えがある。


「ぅ‥ん、すまない‥ありがとう。その襟巻、とても似合っているよ」


照れくさそうに礼を述べた神殿騎士は礼儀正しく、愛想のよい若者だった。

彼と別れ、不機嫌そうなファフロベティウスに会って指示を仰ぐ。


「司教から言付かっておる。前方の障害物の向こうが、結界だ」


言われて前方を窺うが、目を凝らすも暗闇しか見えなかった。

確認できないことを正直に伝えると、ファフロベティウスは訝しんでルナンサンの経歴を質す。

ルナンサンが魔術の知識など皆無、僧籍はおろか僧院での学識すら修めてないと知る。

すると露骨に侮蔑した様子で、道端の折り重なるように散乱している荷物を指し示した。

道端に集められた荷物の、松明が照らす鞄に残る黒々とした飛沫‥‥、ハッとして見渡す。

明らかな手形‥‥凝固した黒い染みに体毛が付着している引き裂かれた外套など。

魔物の臭気で鼻がおかしくなったと思っていたが、間違いではなかった。


「ここは襲撃者と逃げる者、後から付いてきていた者共とで交錯した形跡が残っている」


事件の起きた翌朝までに、凡そ千人余と三十以上の馬車が城を出ているのだが‥。

結界に閉ざされ避難を諦めて城に戻るか、家財や商品を置いていけない事情であれば、

結界の近くで野宿しているとしてもおかしくない。

考えてみれば、この場ここまでの道中で怪我人や死体を見ていない。

‥だが、魔物は先ほど撃退できたので一先ず安心できるのでなかったのか。

ルナンサンの疑問に、ファフロベティウスは冷ややかな笑みを見せる。


「悪鬼か魔獣か、数や正体は分からん。死体が見当たらぬから、持ち去られていよう」


ぞっとした。化け物が他にも潜んでいるかもしれないというのか。


「我らは結界を除いて後、速やかにここから離れねばならん」


直ちに取り掛かれと命じられた。

心得ましたと一礼し、 怖ず怖ずとルナンサンは護衛の騎士を付けてもらう許しを請う。


「無論、護衛は同行させよう。しかし、解除に失敗して何が遭っても助けには行かせん」


一応、安堵してルナンサンは頭を下げ謝辞を述べる。

二名の騎士と従者を伴い、勇気を出して進もうとするのをファフロベティウスは呼び止める。


「ああ。それとだ」


失敗して戻ってきても貴様はここに置き去りにするぞと、ファフロベティウスは笑った。





黙々と歩む神殿騎士たちは挨拶が済むと特に言葉を交わすこともなくて、

堅苦しい空気感と自身の重責で気分が滅入ってしまいそうだ。

少し先を進んだところで、灯りが見えてきた。

先行して障害物の撤去をしている人夫らである。

横倒しになった荷車から散乱する荷物を大事そうに取り片づけていた。

彼らの邪魔にならぬよう道端に回ろうとすると、呼び止められる。


「パンありますよ。包みの方はチーズと、樽の中身は干し鱈でした」


休憩していかないかという誘いだ。ルナンサンたちは思わず互いの顔を見合わせる。

神殿騎士が就いているので、どうやら労働の対価として黙認されているらしい。

人夫を警護する騎士が目的を尋ねてきたので、

結界を破りに向かう途中であることを伝えると、従者を呼んで使いを出した。

騎士は溜息をついて、結界はまだ少し先の方にあると言う。

そして、この分では日没までにクルルゥクに着くのは無理だと明かす。

話によればファフロベティウスは想定を超えた遅延に業を煮やし、

結界を抜ければ休むことなくクルルゥクに向かうつもりなのだと。

この方針は人夫たちやルナンサンらにも、まだ知らされていないことだ。

ファフロベティウスの気性を知っていて、人夫の監督を任された騎士は、

不満が漏れ始める前に慰労の形を表し、無用な諍いを生まぬよう計っていたのだ。

なるほど。人夫たちは重労働が続いてるのも拘らず、嬉々として作業をしている。

パンを頬張りながら人夫の一人が鉈でチーズを切り分け、

どこで見つけたのか干し肉を添えるとパンに挟んで持ってきてくれた。

躊躇っていた護衛の騎士と従者だが、

年配の騎士が盆に移したパンを差し出すと、少し離れて食べていた。

手渡されたパンを一口齧れば、ふと冬の週末に通う馴染みの酒場の喧騒が思い浮かぶ。

緊張感のない和やかな雰囲気のおかげで、ルナンサンの肩の力が抜けて楽になった。

一息ついて再び先へ行こうとするのを、作業を監督している騎士が呼び止める。

先の進路の状況は分からないので人夫を連れて行くようにと、

体の大きな三名を選んで同行させてくれることなった。





ルナンサンの両脇を神殿騎士が守り、

前方を彼らの従者と三名の人夫が付いて進む。

放置された馬車や荷車の脇を通り抜ける時は、

立ち止まって生存者が居るか確認するのだが、誰一人 遺体すら見つからない。

しかし、これまでと違う‥変化を感じる。

死臭がする。臭いの元をたどると驢馬が車に繋がれたままで息絶えていた。

よほど慌てていたのだろう‥。

車内に角灯が残されたままであったり、道端で横転している荷車も見える。

気配はなく不気味なほど静かで、再び戻ってきた形跡はなかった。

逃げた人々は暗闇の中を今も彷徨い続けているのだろうか‥。


「‥待て」


少し先の暗闇から、角灯の灯りが左右に揺れ動いている。

安全確認のため先導していた従者たちが、異変を察して合図を送っているのだ。

すぐに神殿騎士の一人が先に進んで様子を見に行く。

しばらく待っていると従者たちと騎士が引き返してきた。


「この先の方から靄が立ち込めていて、たいへん危険です‥!」


我々の手持ちの灯りでは自分の足元すら見えないほど視界が悪いと言う。

さらに数台の馬車が道を塞いでいるため、

車列が通行するには人夫たちに撤去させねばならないとのことだ。

問題はそれだけではなく、さらに奥から強い死臭が漂ってきたと話す。


「臭いの正体を確かめねばならないが‥、我らが調査の間は貴殿の警護が手薄になる」
 

結界に挑む前にルナンサンが襲撃されるわけにはいかないことと、

神殿騎士は親類縁者から教育を任されている、各々が従者の生命に責任を持つ。

貴族の子息である彼らを不用意に危険に晒すようなことはできないのだ。

先立って馬車の撤去も必要なこともあり、

慎重を期すことに騎士の意見が一致して応援を頼もうということになった。

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マニ宝珠㉓ [小説「マニ宝珠」]


――バシュンーッ         ――トスッ


何か弾けたような音がして、魔物の体に矢が立った。

マデュークがクロスボウで射たのである。


「URウOhАаааァアア!!!」


魔物の絶叫と同じくして体を呪縛していた魔術が解けた。

間髪を入れず反撃に移ろうと騎士たちは魔物との距離を詰めていく。

マデュークも次の矢を番えようとクロスボウの取っ手を回す。


 ‥‥‥Nギギギgigigi‥ Dァrnんngh‥!


矢を引き抜いた魔物は忌々し気に矢を放り投げ、再び杖を構えた。


――またも妖しい術を使おうという魂胆か。


思惑を察した騎士たちは矢継ぎ早に斬り掛かってゆくが、

魔物の身のこなしは衰えておらず、剣は空しく虚空を切った。


(‥このままでは、まずい‥っ!)


勇猛果敢に切り込む騎士たちだが、焦りから連係がとれていない。

味方の動きに追随して斬り込むのでは、

魔物の俊敏な動きを捉えることができない‥だが悠長にしていられない。


  ・・ …ッ … …ト… 


魔物も身を躱す瞬間は意識が逸れるようで、魔力の集中を妨げてはいる。

‥だが、魔術の発動を遅らせるのみで中断させるには至らない。

固唾を飲んで見守るルナンサンは、ふと感づいた。


(今、遠くで馬の嘶きが聞こえた気がしたが……)


・・気のせいか?見回しても暗闇が広がるのみだ。

視線を戻せば、懸命に戦う騎士たちの動きが鈍ってきているのが見て取れた。

逆に手負いであるにも拘らず、魔物は衰えた様子もない。


‥‥‥禍々しい気が魔物に集まって、波動の高まりを感じる。


ルナンサンは天神地祇に縋るような心地で、腕輪に祈った。

マデュークも魔物への狙いが定まらず、

歯噛みして騎士たちの奮闘を見守っていた・・そこへ、


 …ト… …ト・・ト…ト…


最初は空耳と思った蹄の音が、

今は確かに こちらに向かって近づいてきている!

さらに驚くことに突然、


――パシィ!


輝く光の玉が魔物に飛んできて、

衝突するや爆ぜて閃光を発すると消えた。



 ――Aシeッ!

 ジ'aリaイs パasセeア ウn ボn ムモnt...

 
衝撃で倒れた魔物は体を起こすと忌々し気に呪詛を吐く。

取り囲むアキューロたちに向け金切り声を上げて威嚇するや、

一瞬で跳躍して闇に姿を暗ますと再び現れることはなかった。





警戒するルナンサンたちの周囲を味方の神殿騎士隊が続々と集まってくる。

戦闘の痕跡を見とめた神殿騎士たちは、

疲労が見られるルナンサンたちに代わって周囲の警戒に当たった。

アキューロは小隊の代表者と共に、

車列の近くまで戻ったところで事の次第を説明する。


「我々は別件で、怪しい光を追いかけておりました‥」


神殿騎士たちは我々を救援するために駆けつけたわけでなく、

先ほど見た謎の光体を追跡してきたのだという。

光は魔物に当たって消えたことを伝えると、

ファフロベティウスを納得させるにも報告に付いてきてもらうということだ。


詳しく話を聞いたところ、その光は近づくと離れていく。

朧気で判然としないものの、人が立っているようにも見えるらしい。

薄気味悪いので隊員らは報告を躊躇うが輝きを増して、放置できそうにない。

報告を受けファフロベティウスが命を下し、光の正体を掴まねばならなくなった。


「何はともあれ、危ないところであった。救援に感謝致す」


戦闘経験を積んだアキューロ達から感謝と労いの言葉をかけられ、

不安を抱いていた神殿騎士たちは、お蔭で報告に戻れると気を良くし、

手分けして疲労困憊のマデュークとルナンサンを馬車へ送り届けてくれた。

アキューロと魔物に手傷を負わせた勇猛果敢な騎士ザヒムは、

ファフロベティウスへ報告のため神殿騎士たちに付いて行くことになった。





「ふう‥さすがに疲れました‥‥‥」


馬車の中では寝そべることができないので膝を抱えて休息をとる。

窮屈ではあるが、角灯の明かりがほんのりと照らす幌の中は心が安らいだ。

緊張が緩んだ途端にルナンサンを強烈な睡魔が襲う。

今はまだ油断ならない。結界の外に出るまでは‥!


「何か話をして眠気を紛らわしましょう」


眠たいのはマデュークも同様であったらしく、

ルナンサンは魔物との戦闘を振り返って感想を述べ合った。




 …パチ ・・パチパチ ッ・・ パチン… ‥パチ…


脇道に退かせた馬車から立ち上る火が辺りを照らしている。

ファフロベティウスは腕組みして床几に座し、アキューロから報告を受けた。


「セルジオ様から伺っていた『heart murmur』と呼ぶ魔物は、
 貌に口以外の部分は無いとのことでしたが‥何らかの感知能力を有してます」


魔物が被っていた羚羊の頭蓋を砕き、貌に傷を付けたこと、

従者の機転で石弓の矢傷を負わせたと報告して、対応するための協議を続ける。


「剣にて相対せねばならないとなると、呪縛の魔術は非常に脅威です」


間一髪の状況だったと率直に述べて、

アキューロは神殿騎士隊の救援に謝辞を表して報告を終えた。


「相分かった。神殿騎士隊は弓の装備がない。弓に代わる対策はあるか」


セルジオに傲岸不遜なファフロベティウスの態度は抜きにして、

大戦を経験した軍事貴族で軍務を担う指揮官としての能力は有している。

ファフロベティウスとて実戦経験の乏しい神殿騎士と、

蛾国や朱国の国境侵犯に対する修練を怠らない近衛騎士の力量差は承知していた。


「打つ・斬る・叩くといった傷で、魔物が怯んだ形跡はありませんでしたね」


ザヒムの述懐にアキューロも首肯して、ふと目線の先の炎に気づく。


「‥そうだ、魔物に松明の火が燃え移った時の様子を思い出した」


 ‥パチ… パチッ


ひどい悪臭で機を逃したが、確かに魔物は‥。


「うむ。。奴は火傷を負って、ひどく狼狽していたんだったな」


ザヒムも気づいて話を繋ぐ。

聞き取りの感触からファフロベティウスは魔物が暗闇の中、

近衛騎士の闘志が萎えた頃合いをみて惰弱の魔術に嵌められたと断じる。


「魔術を使わせなければ相手は、たかが敏捷い猿一匹と変わらぬわけだ」


手傷を負って逃げたのであれば、すぐに姿を現すことはあるまい。


「魔物が次に現れた時に備え、小隊は忘れず油瓶を携帯しておけ」


ファフロベティウスは魔術の脅威さえ除ければ、

数で勝る神殿騎士たちと自身が後れを取るはずはないと考えている。

アキューロとザヒムはファフロベティウスの判断に異を挟むことはせず、

再出発の準備に忙しない先頭車列を後にした。


馬車に据え付けた角灯の明かりが、点々と連なる車列の外れ。

手に掲げた角灯の明かりの先に続く漆黒の闇を見据えつつ、

勇敢な二人の騎士は魔物との激闘を振り返る。


「魔物の貌‥羚羊の下の貌は見たか?」


隣を歩くザヒムへ、アキューロが声をかけた。

よく見えなかったとザヒムは首を振って、

いや‥、ふと思い出したように言った。


「姿を消す前に俺を睨んだような気がする」


・・まさか。アキューロの背筋に寒気が走る。


「分からん。だが、あの時もう少し速く踏み込めていれば、な」


踏み込めていれば腕を切り落とせたとザヒムは悔しがる。

冷静で良い判断だったとアキューロは、

ザヒムの肩を叩いて賞賛と労いの言葉をかけた。


「ああ、次こそは任せてくれ」


不敵に笑う漢ザヒムに、アキューロは首を振って忠告する。

魔物には人狩りを楽しむ嗜好があるうえに、

性格は極めて陰湿で暗く、苛虐性に強い情動が見とめられる。


「神殿騎士が十人がかりでも相手になるかどうか‥‥‥。
 最悪の場合は‥、誰かが犠牲になって逃がす判断も必要になる」


応じてザヒムも、執念深い魔物に警戒することへ同意した。

アキューロは頷いてザヒムの背中をポンと叩く。


「腕や足の一本は失う覚悟で、次こそ必ず仕留めよう」


二人は互いの拳を合わせて、決意を固めた。

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マニ宝珠㉒ [小説「マニ宝珠」]

 ――セt teルmOt アmユゾnッ ドe ホoンdュ uぃnヌ ヴe!!!


ルナンサンの目の前で魔物の攻撃を懸命に盾で防ぐマデューク。

――ガツ  ――ッガ! ――ガンッ

魔物の拳が振り下ろされる度に、盾が鈍い音を立てる。

マデュークは助けを求めるどころか、逆に大声を上げて魔物を挑発する。


‥囮になって時間を稼ぐつもりなのか。


魔物の注意を引きつけておくつもりのようだが、

マデュークが反撃してこない様子に、攻撃は激しさを増していく。


‥‥あの大楯を掲げたまま四半時は経ったか。腕はもう辛かろうに‥。


マデュークが魔物の攻撃を受けてよろめいた。

見ていたルナンサンに緊張が走るが、すぐにマデュークは体勢を立て直す。

松明の明かりが魔物を照らし、影が動きに合わせて狂ったように躍る。


鉈で‥どうにかできる相手ではないだろうが。マデュークを手助けして、

二人でなら‥‥非力さを痛感しているルナンサンは決心がつかない。


踏ん張り続けたマデュークの思惑は実を結ぼうとしている。

揺らめく影‥と、別の影がひとつ、ふたつと‥ゆっくりと伸びていく。

暗がりから姿を見せたアキューロたちが、

魔物に気取られないよう慎重に距離を詰めてきていた。

しかし、マデュークからアキューロたちの姿は見えない。

魔物の身体能力を思うと完全に不意を突かねば、避けられてしまうだろう。


‥自分より若い者が命を張っている。

黙って見ているよう言われ‥この先も成り行きを見物するだけか?

ルナンサンは己ができることを考えていた。

マデュークの奮闘を見ていて、彼がクロウボウを背負っているのに気づく。

未熟であっても人を守り、戦う手段を備えた将来の騎士に敬意すら覚える。


狩猟の趣味でもあれば良かった。自分も仲間と家族を守る力があれば‥‥。


口惜しさと共に魔物と戦う力を切望すると、不意に腕輪から熱を感じた。

気のせいと思うが一応、手に触れて確かめたが特に変わったところはない。

訝しむルナンサンの腕輪から、やがて淡い光の筋が伸びて魔物を照らしだす。

雲の間から漏れる木漏れ日ほどに、か細いが神秘的な白銀の輝き。


一方的に攻め立てていた魔物がマデュークから距離をとって、後退りしていく。

鏡に反射した光で眩んだように貌を背けて、光輝を忌嫌うように背を向ける。

その間にも騎士たちはじりじりと距離を詰め、再び魔物を取り囲んでいた。

先ほどは暗闇で同士討ちの危険がある中を、

微かな松明の明かりに照らされる魔物へ斬り掛かるのと違って、

今度は立てられた松明の明かりが魔物の姿を煌々と照らしてよく見えている。

その隙に、マデュークは盾を構えたままでルナンサンの傍まで後退していく。

ルナンサンからは魔物の全身をしっかりと目視できていた。


‥‥なんと禍々しい姿。悪魔とは正しく目の前の者を言うのだろう。


ルナンサンの腕輪の輝きに魔物が怯んでいる様子を好機とみて、

騎士たちは四方から一斉に突進していく。

今度こそは仕留められるかのように思えた。

しかし魔物はまた驚くべき反応を見せて、地面を転がって囲みを抜ける。

躱されることを見越していたアキューロたちは、

息をつかせず直近の二人が再度 斬り掛かった。

だが、それすら勘づいた魔物は両手をついて跳び上がって避けた。


 ――Qゥaンd ル sロwpOゥクs ヴォle!!


着地した魔物は余裕を見せつけるように、足踏みして嘲笑う。

その油断した隙を窺っていた大柄な一人の騎士がいた。

魔物の気が緩む間隙を見逃さず、嘲弄する魔物に長剣を振り下ろす。

刹那に勘づいて身を翻す魔物だが、

剣は見事に角を切り落として、切っ先は貌の頬を削いだ。


 ――Oウg‥chッッ‥n‥オh‥サ aロs !


手傷を負ったことに動揺したか、

よろめいた魔物は立ててあった松明にぶつかった。

呪詛を吐き、怒りに唸り声を上げて威嚇していた魔物は、

己が身に起きていることに気がついたようだ。

松明の炎は魔物の髪に燃え移り、見る間に頭部まで這い上っていく。


 ――Ooh!Aghhhhhhhhhhhhh!!!


狼狽する魔物はやにわに頭を掴むと、地面へ投げ捨てた。


(羚羊の頭蓋を頭に被っていただと――!!!!)


羚羊の頭部が転がるのを見た全員が驚き、呆然として言葉を失う。

そしてすぐに、そのようなことに気を取られている状況ではなくなる。


「う‥っ!」


斬り込んだ騎士が口を押えて魔物から急いで離れていく。

「‥? うッ」

「! む‥ゥ」

「ぅ・・ぐ!」

畳み掛ける絶好の機であったのだが、すぐに事態を理解した。

「!!っう゛」

魔物から とてつもない悪臭が漂ってきたのだ。

皆、次々と吐き気を催して魔物との距離をとる。


「 ぉ・・ェ‥‥ッ」


ルナンサンは迫り上げる嘔気を懸命に抑えて後退るが、

呼吸もままならず咳き込むと、堪え切れずに嘔吐してしまった‥。

強烈な腐敗臭に鍛錬された騎士たちでさえ嘔吐いて、

意志に関係なく痙攣する腹筋を腕で押さえて前屈みに姿勢を崩す。


極めて危険な状況であったが、

魔物の方もこちらに構う余裕はなかったようだ。

髪から着衣に燃え移った火を消すのに必死な様子で、

幸いにも襲撃を受けることはなかった。


「手拭いで鼻を覆え。口から呼吸を整えて、構えは解くなよ!」


アキューロが仲間を励まし、騎士たちは体勢を立て直す。


 ‥チu デeずeスペェrあs うx シgン ド ラa mオぅt‥‥


ブツブツと何事か呟き、

黒い闇に佇む魔物はゆっくりとした足取りで姿を現した。

地面に落ちた松明の明かりで僅かに照らされた魔物の貌は――、

燃えずに残った髪は僅かで、衣服を裂いて貌を隠している。

こちらを高を括った態度から一変、

魔物は威嚇するように唸り声を上げ、腰から奇妙に捻くれた杖を構えた。


 ――いfフイぃエr ろomゴ ど ラa mオぅt‥,

ヌe プut ペas プuジr coムme ィne sたaチゅe そns aむe!!


言い知れぬ恐怖‥魔物から吹き上がる冥い異界の魔力が集中していく。

気圧されたルナンサンは恐怖に慄いて腰を抜かしてしまう。

騎士たちも魔物の鬼気に当てられて怯んだことで、魔術に捉われてしまった。


Tぃァンs!ラa モoるt シieンt セa mァn sョr トn エpaゥるe!!


魔物の、けたたましく嘲笑う声が近づいて来る‥‥。

迫りくる死を直感してルナンサンは恐怖のあまり錯乱状態になった。

アキューロたち騎士ですら体が硬直したまま身動きできず、歯を軋ませる。。

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マニ宝珠㉑ [小説「マニ宝珠」]

来た道を歩いて戻る途中のルナンサンは、

後ろから来る馬の蹄の音に気づいて車列の合間に避けた。

直ぐに脇道を馬に乗った騎士が駆け抜けていく。

‥‥危なかった。

この暗闇の中を騎士も車列伝いに馬を走らせている。

厳戒の最中で馬車を降りて、

呑気に出歩いている者がいるとは思っていまい。


「危ねえよ、旦那。ブラついちゃマズいですぜ。」


声を掛けられて振り向くと、

使い古した幌馬車の御者台に男が座っていた。

煙草の火と、燻る紫煙の香りが鼻孔をくすぐる。

相手の顔すら見えないほどに暗いが、

互いの存在が分かるくらいには距離は近い。


「あ、ああ‥驚かせてすまない。馬車に戻るところでね」


見張りの御者に礼を言って後方へ気を配りながら歩く。

しばらく歩いて、前方からまた馬に乗った騎士が駆けてくる。

ちょうど良く目印に立てられた松明の傍に避けて、

通過するを待っていたルナンサンを、騎士が認めて馬を止めた。

近寄るなり、出歩いていることを咎められる。

素性を明かして事情を話すが、

使いの神殿騎士は立腹してルナンサンは散々に面罵された。

どうも自分を連れてくるよう命じられてきたらしい。

馬車を抜け出したことで手間を取らせたことを詫び、

不機嫌な神殿騎士の馬に便乗して、また取って返す羽目になった。


車列の先頭に近づくと、何かが燃えているのが見えた。

脇に退かした馬車に火が掛けられ、傍を数人の人影が立っている。

ファフロベティウスとアキューロが協議しているようだ。

ルナンサンが到着したと知るとアキューロが来て、

いま起きている事と、危険が迫る可能性について説明を受けた。


話によると、この先も数台の馬車が道を塞いでいるので、

神殿騎士は人夫たちを警護するため車列から離れること。

その間、騒ぎのあった馬車の周辺を我々が見張ることになったという。


「正体は不明だが、恐ろしく邪悪な存在が徘徊しているとの報告だ」


邪悪な存在とは『heart murmur』と名付けられた魔物だ。

人型で要領を得ない言葉を話し、目耳鼻は無いらしい。

驚愕の身体能力が有り、一瞬でも気配を覚られると攻撃は避けられる。

とても力が強く、脆弱と思われると執拗に襲い掛かってくるという。


「遭ってみないと魔物の正体は分からない‥気を引き締めるように」





しばらくは何事もなく過ぎていく。。

だが、異変は唐突に‥確かにそれと分かる異質さで現れる。


‥‥酷い臭いがする。雨に濡れた獣の放つ不快な臭い‥。

ルナンサンは初めのうち、取り片づけた犬の亡骸が元だと思ったが。


 ‥っ‥ これは、まさか‥‥。


騎士たちも異臭に感づいていた。

一層、周囲を警戒していると何言か呟く声が近づいてくる。


 ‥‥モrツ‥pulプuずz‥ ‥MOォt‥PりゥpOoze‥‥


背丈は遠めに見ても大きい。膝まで伸びた長い白髪。

髪に隠れて表情は窺えず、口だけを忙しなくモゴモゴと動かしている。

白装束はみすぼらしく、それだけであれば単に巡礼者という体であるが‥、


 ‥‥あれは何だ、‥‥。


息を呑む。彼の頭に羚羊の特徴のある大きな耳と‥額から角が生えていた。


 ‥エp‥‥fんdュ‥‥Moッ‥プuリゅpeuズ‥‥ 


とても緩慢な歩みだが、微かに足音を立てて徐々に近づいて来ている。

運よく距離が空いていた騎士の前を通り過ぎ、存在に気づく様子はない。

身を潜めていた騎士はそっと、顔だけを動かして魔物を目で追う。

ルナンサンの背後では、馬が落ち着かない様子で身動ぎしている。

何かしら感知する能力が有るのか、近づいてきているのは明らかだ。


‥‥背筋が凍りつく。気配からして人間ではない‥禍々しい異界の存在。


魔物の歩む方向には盾を掲げて身構えたマデュークと、

ルナンサンはやや後ろで持っている鉈を握りしめた。

決して動くなとの指示を頭の中で反芻して、固唾を飲んで見守る。

勇敢なセルジオの騎士たちは剣を構えて、隊長アキューロの合図を待つ。


(確証を得ないが、目も耳も鼻も利かないというのは事実のようだ)


魔物について、アキューロたちはセルジオから対処法を受けていた。

挟んで同時に斬り掛かり、魔物の動きから目を離さないこと。

‥何か手を打って、動きを止めた隙に一息で仕留めたいところだが‥‥。


 ‥プルル‥‥


馬が微かに鼻を鳴らすと、魔物は立ち止まって耳をそばだてた。

注意が逸れた様子を機とみて、アキューロの手が振り下ろされる。


 ――合図だっ!


一斉に斬りかかる騎士を、魔物は驚くべき反応の速さで跳躍して躱した。

そして、なんとマデュークの目の前に着地したのである。


「マデューク、体当たりだ!」


アキューロの声に弾かれたようにマデュークは突進する。

ルナンサンが見守る前で二つの影が合わさった。


「うっ!」


呻き声と同時にマデュークは弾き返されて尻をついてしまう。


 ――セt teルmOt アmユゾnッ ドe ホoンdュ uぃnヌ ヴe!!!



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マニ宝珠⑳ [小説「マニ宝珠」]

【ご注意】気分を悪くする文言が含まれます。<(_ _)>



城門前に焚かれた篝火の灯りが完全に見えなくなった。

幌に覗き窓がないので外を窺うことはできないが、

出入り口から垣間見えるのは漆黒の闇しかない。


「‥クルルゥクに着く前に尻が割れそうです‥‥」


マデュークの冗談に皆が笑った。

幌の中は狭く、角灯の灯りで互いの顔が分かるくらいには明るい。

そもそも野菜や水樽を運搬する荷馬車に、四人が乗り込んでいる。

御者側も二人が座っているので、いささか定員を超えていた。

持ち込んだ手荷物で間隔も無く、寝そべるどころか足も伸ばせない。


「クルルゥクから一番近いオビィロ村でも徒歩で大よそ‥四刻はかかるか」


セルジオ直属である騎士隊は冬を前に野営訓練が行われるという話だ。

マデュークらの上役で隊長のアキューロが隊員の自己紹介を兼ね、

騎士として積んだ修練の経歴を語ってくれた。

オビィロ村から南東へ三日かけて移動し、各営所に分かれる。

現役の騎士から語られるありのままの軍隊の厳しさは、

ルナンサンも真剣に耳を傾けて聞き入った。

狩猟用罠と偽装の手法についての解説はとても興味深いものであるし、

話は陣地設営や夜間訓練‥、リルム山麓の北側に広がるリルムンガン、

通称リルム台地へ赴いて一番辛い登攀訓練の体験談に及んだ。

一瞬、話が静まった時に外で人が物音を立てていることに気づく。

御者を務める騎士へ何事か尋ねると、

目印に立てた松明を回収して前方へ走っていく人影があるという。


「幾つかは残して、人夫が交代で回収しているんですよ」


残した松明は戻ってきたときに持ち帰ればいいし、

道標にできるということらしいですとマデュークが話してくれた。

よく考えたものだと感心するルナンサンはふと気づく。


「この暗闇の中を迷わずに進めているようだが、何故かな?」


実は結界に閉ざされ脱出できなかった市民たちが、

来た道を戻る際に持ち出した荷物を道端に放棄していた。

点々と落ちている物を辿って進めば、迷うことはない。

結界を突破し得るならば、市民を誘導して脱出させることは、

難しくはないのでなかろうかとルナンサンが疑問を投げかける。

アキューロは尤もだと首肯するが、今は答えられないとはぐらかされた。


メガロポリスが暗闇に覆われた夜。

メガロポリスの周辺集落を襲った魔物の一部も結界内に取り残された。

暗闇の中を無事にメガロポリスに戻ってこられた市民の証言と、

捜索に出たセルジオの騎士の奮闘により、もたらされて判った事である。


後で知ることになるが‥メガロポリスが怪異で混乱している最中、

結界の外に出た人々を追って、魔物は近郊の町を襲撃していたのだった。





メガロポリスを出て、結構な時間が経った気がする。

荷馬車の列は驢馬の足に合わせて、ゆっくりと進んでいた。

そろそろルナンサンの尻も辛くなってきたが‥。

何か騒々しい‥! 前方から蹄の音と掛け声が近づいてくる。


「停まれ―」「全体停まれ―っ」


前方で何かあったようですと、御者台に座る騎士が知らせる。

頃合いを見計らって、素早く降りたマデュークが道板を架けた。

続いて剣を提げたアキューロらも降りて走っていった。

さて、どうしたものだろうか‥‥?

遠くで角灯を翳して停止の合図を出している騎士と、

その後をついていくアキューロたちが走って行くのが見える。

この緊迫した空気を読んだルナンサンだが、

一人で待つのは心細さを感じ、皆の後を追いかけることにした。

その途中で、神殿騎士が人夫たちを連れていくところを目撃する。

彼らを何のために集めているのか、隊の最前列に着いてすぐに分かった。


ルナンサンが着いて目にしたのは、

放置された馬車に縄が掛けられ、道の脇まで引いている作業だった。

見れば、その先も数台の馬車が放置され道を塞いでいる。

道には大小の荷物が散乱し、取り片付けも人夫たち総出で行われていた。

アキューロたちは手分けして、人夫たちの陣頭指揮に当たっている。

ファフロベティウスの指示で神殿騎士たちは作業の警備に立ち、

車列の警護に当たるため、数名が隊の後尾へ駆けていった。


様子を見ていたルナンサンは奇妙なことに気が付く。

呼子笛の合図がない。号令や気合を掛ける声すら憚るように、

作業をしている者は皆、口元を布切れで覆っているのだ。


さらに注意深く観察すると、

角灯の灯りと手振りで大まかな指示が行われるようである。


(大きな音を立てると、何かまずいことがあるのだろうか?)


そう推測したのは出立を待つ間、馬に口枷を嵌め、

嘶くのを抑える漏音対策をしているのを知ったからだが。

しかし、それには幾つか疑問がある。

荷馬車の車列が立てる音と振動は、結構な騒音がしていたはずだ。

しかし今のところ、特に問題は起きなかった。

不意の襲撃を警戒するのに越したことはないということか。

などと考えているルナンサンの見ている前で作業は淡々と、順調に進む。


(‥今更、腕力のない自分が出て行っては却って邪魔になるかもしれぬ)


戻ろうとして、車列から犬がけたたましく吠えているのが聞こえた。

一向に止む気配はなく、何人かで犬を制止しようとしている声もある。

‥‥とてもまずい事が起きたのを直感した。

すぐに神殿騎士と、ファフロベティウス自らが駆けていくのを見て、

ルナンサンも急いで現場へ走る。



ルナンサンが着いた時、一台の馬車の前で騎士たちが集まっていた。

殺気立った罵声に加えて、肉を打つ鈍い音もした。

‥とても近づける雰囲気ではないが、暗くて何も見えない。

気分の悪い光景を見ることは覚悟の上で、見届けたい気持ちが勝った。


‥! 裏から回って、前で停まる馬車の後ろ。

あの辺まで近づければ、会話くらいは聞き取れるかもしれない。

身を隠しながら近づいて、前の馬車の車輪の陰へ素早くしゃがみこむ。

幸い見張る者はいない。馬を刺激しないように静かに足を忍ばせて、

騒動が起きている馬車の真後ろに回り込むことができた。


普段は臆病で揉め事などに興味を示す気質ではないが、

鉄の桶を金棒で叩いているような罵声を聞いて反感の念を抱いた。

この時は半ば強い怒気に後押しされる形で、

ルナンサン自身も驚くほど大胆な行動を取ったのだった。



「‥‥はないわ! 軍法に照らし、そなたらの首を掻っ切っておるところだ!」


聞き捨てならないファフロベティウスの言葉に、

すすり泣く子供と、必死に弁解する男女の声が聞こえる。

咎を受けている原因は飼い犬を持ち込み、外に出してしまったことだろうが、

生命の処断に及ぶほどの違反であるとは思えない。

憤りを覚えるルナンサンだが異論を差し挟める権限はない。

固唾を飲んで聞き耳を立てていると、伝令らしい騎士が到着したようだ。

報告を受けたファフロベティウスは指示を出して戻っていく。

残った神殿騎士らが、家族を馬車に戻す様子なのを見届けたところで、

ルナンサンも見つかる前にその場から距離を置いた。


( ‥‥)


そういえば、犬はどうなったのだろうか‥‥。

振り返って目を凝らすが、現場には誰もおらず真っ暗で何ら発見できない。

‥かといって、近づいて行って “それ” を確認するなど‥‥。


(肉を打つ鈍い音。あれがそうだったのだろうか‥‥)


荷馬車へ戻るルナンサンの心は沈んでいた。

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マニ宝珠⑲ [小説「マニ宝珠」]

セルジオは大聖堂に建つ鐘楼のテラスに移り、行進を眺めていた。

煌々と照らされた大通りに詰めかけた観衆と、

悠然と進む神殿騎士隊らに送られる大きな声援は城外にも届いているだろう。


揺るぎない軍の威光を示し、市民に希望を持たせようという、

セルジオの思惑は当たった。人々の不安を拭い去ることができたようだ。


「大成功ですな」


テラスから下りてきたセルジオに、

安堵した様子のメルチェコ司教が歩み寄って感想を漏らす。

首肯しつつも、セルジオは今後の市民に募る “不満” にどう対処するか。

空を見上げれば、暗澹たる暗闇ばかりで一条の光陽さえ射さぬ。


「餓死する者が出る前に、正気を保てぬ市民も出てきましょうな」


メルチェコ司教は書面に、援軍を要請したことに加えて自身が、

メガロポリスから退避する考えはないとの決意を書き記したと話す。

セルジオは感謝を述べつつも先の見通しを示せぬままでは、

最悪の場合‥暴動も起こるだろうとして軍による鎮圧の可能性を率直に述べる。


非難はしないが、首を振って反対の態度をとるメルチェコ司教は方策を尋ねた。

セルジオは混乱が起きないように何れ新たな布告を出すと話し、

アルマラカルでの食料調達が思わしくない結果であれば、

首府カルナザルディアの管轄するクルルゥクの軍糧備蓄庫から、

了承なく搬出させる指示を下したと明かす。


「‥籠城の要は、彼らがアルマラカルから援軍を連れて戻ることが前提です」


援軍の望めない状況が確実なら‥‥、

メガロポリスから速やかに市民を退去させると。

メルチェコ司教は頷いて、セルジオの方針に異存はないとして承諾すると、

修道僧らと連れ立って居室へと戻っていった。





窓から手を振る女たちへ、ファフロベティウスは にこやかに手を振り、

沿道の御婦人から声が掛けられれば、唇に手を当てて応えた。

配下の若い神殿騎士らも市民に笑顔で応える一方で、

硬い表情を崩さず付き従う古参の騎士も見受けられる。

神殿騎士隊の後ろ、騎乗するセルジオ配下の騎士に随伴する従者と、

少し浮いた印象を受ける旅姿のルナンサンは歩いて行進していた。


街燈の下に居た若い娘が前方を進む年若い神殿騎士に駆け寄って、

赤い襟巻きを渡したのをルナンサンは目にした。

若い神殿騎士は隊列から離れて馬を止め、娘と親密そうに話をしている。


「羨ましいなぁ。私も正式な騎士になって所帯を持ちたいです」


若いマデュークは昂然として意気込んで、

窓から手を振る女性に手を挙げて満面の笑顔で応える。


「旦那さま~」


ルナンサンを呼ぶ聞き覚えのある声の方を振り返ると、

スーサンと肩車されて手を振るのは次女のバレリーナだ。

人だかりで見えないが、傍に長女とステラは一緒にいることだろう。

手を振って微笑み返すルナンサンの心に、妻メアリの哀しげな顔が浮かぶ。

不安を感じさせないよう‥或いは、

自身の怖気を振り払うために満面の笑みをつくる。

そこへ先ほどの若い神殿騎士が、娘との別れを済ませて隊列に戻っていく。

前を横切るのは一瞬であったが、心淋しげであり‥目は潤んでいるように思う。

ルナンサンは何度も振り返り、スーサンたちの姿が見えなくなるまで手を振った。





行進は大通りを抜け、南門前の広場に着いて止まった。

広場には御者と人夫が集められており、

整然と並んだ荷馬車と、似つかわしくない華美な貴族馬車も見られる。

楽隊はここで解散となり、出立直前の旅支度のため小休止が取られた。


水差しを持った女たちがファフロベティウスらに飲み物を配り、

ルナンサンたちには大きな水瓶が運ばれてくると皆で喉を潤した。

マデュークたち従者は、井戸から汲んだ水桶を持って馬の世話している。

ファフロベティウスら神殿騎士たちは慌ただしく、

ひだ飾りをあしらう羽織や羽帽子の儀礼用の装いから、

甲冑や鎖帷子の上にフードの付いた外套の出で立ちに着替えていく。

長い髪を結わえて目だし帽を被れば、

一目ではセルジオの騎士と見分けられなくなった。


やがて使い番の兵士から最後尾の馬車に乗るよう指示を受け、

併せて騎士には後方の警戒と隊列の警護が任される。

笛の合図に振り向くと、松明を持った兵士たちが一斉に城門の前へ集まった。

緊張した面持ちで数人の神殿騎士が、

ファフロベティウスから指示を受ける様子が見えた。

しばらく見ていると城門が開いて、

ファフロベティウスの号令で先発の騎士と、

集められた兵士たちが外の安全確認に出ていく。


「我々は最後ですから、もうしばらく掛かりますよ」


緊張した様子のルナンサンを察したのだろう。マデュークが話しかけてきた。


「それならば、厠を済ませておこう。すまないが‥‥」


あなたを置いてきぼりにはしませんよとマデュークは笑って、

城壁に設えてある厠の場所を教えてくれた。


小用を足して戻ろうとしたルナンサンを呼び止める小さな声に、驚いて振り向く。

ステラと手を繋いで長女のリーリエが立っていた。

歩み寄ってステラを労うと、リーリエを抱きしめて頭を撫でてやる。



‥やあ。愛しいお嬢さん。


「こんな所まで見送りに来てくれて、ありがとう。ん‥?」


大事そうに、差し出された小さな手に握られたのはエキザカムの花だ。

そっと手渡したリーリエは気恥ずかしそうに、そっぽを向く。


エキザカムの花言葉は “あなたを愛します”。


紛れもない。私が妻へ求婚した時に贈った思い出ある花だ。

妻メアリに託された伝言の花を届けたいと、二人は門の前で待っていたのだろう。

妻と二人の気遣いに感じ入ってしまい、思わず涙が零れた。

私の頭を撫でるリーリエの手をとって、キスすると妻へ感謝の伝言を頼んだ。

ステラと一緒に手を振る愛娘の姿を惜しみつつ、吹っ切るように小走りで戻った。


「こちらです、ルナンサン殿~。お早く―」


一台の幌馬車からマデュークが呼ぶ。差し出した手を掴んで馬車に乗り込んだ。

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マニ宝珠⑱ [小説「マニ宝珠」]

カーン カラーン カラカラーン カラーンカラーン カラーン ‥‥


一日の始まりを告げる鐘を頼りに市民は朝を迎えた。

昨晩の残りのパンとお茶の簡素な食事を済ませ、

支度を整えたルナンサンは、一時の別れに言葉を交わす。


「外は空気が悪いから、私はここで見送ります」


メアリが歩み寄って、ルナンサンの胸に頬を寄せる。

心配ない。必ず戻るので、気に掛け過ぎないように‥と、

愛する妻の額に接吻して励ました。


「いってらっしゃいませ、旦那さま。また後程‥」


娘たちが燥いで二人に気苦労をかけるのを詫び、

重ねて留守中の家事と子守りを頼んだ。

肩に担いで、決して手を離しませんよとスーサンは胸を張る。

スーサンの娘たちの扱いに不満がありそうなステラは、

もの言いたげな顔をしたが、お任せくださいとだけ答えた。


「総督に相談しておくので、困ったことは使いの方に頼んでくれ」






総督府の敷地に入ったルナンサンは、すぐに異変を感じとる。

すれ違う騎士の数が普段より多く、慌ただしい。

何事かと聞けば、総督府でささやかな出立式が執り行われるという。

しばらく待つことになったが、セルジオに面会が叶った。


挨拶もそこそこに用件を尋ねるセルジオは平時の簡素な軍服から、

甲冑に家紋入りの外套の正装の出で立ちで、威厳に満ちていた。

セルジオの威風に気圧されつつもルナンサンは口を開く。


「これより任務に赴くのですが‥」


留守の間に城で切迫した事態になった時は‥、

残された家族の後事を頼みに伺いましたと首を垂れる。

セルジオは食糧に不安があるのは事実として、


「そなたらが戻るまで、秩序や医療に些かの憂うところはない」


心配は要らぬと答えた上で、ルナンサンの憂慮には理解を示す。

家族の様子は部下に見に行かせると合意を得られた。


安堵して礼を述べるルナンサンの旅支度を見て、

いささか不安に思ったセルジオは手持ちの防備を尋ねる。


「剣技はおろか、護身の武術なども心得はありませぬ‥‥」


防具などは身に着けておらず、武器といえば蔦を刈る鉈を持参したと、

真剣な顔で答えるので‥セルジオは部屋に飾られた所蔵物に目を移す。


「ふむ。腰鉈一振りでは心細いだろう、これを持て」


壁に飾られた剣の中から、短剣を手に取ってルナンサンに手渡した。


「よいか。家族を思うのなら、必ず生きて戻るように」


朱国の意匠を凝らした見事な彫刻の鞘。

鍔から柄頭にかけて設えた、拳を護る蛇の装飾も美しい。

剣自体は成人を祝う儀礼用の鈍らな刃であるから人は斬れないとのこと。

死神を退かせる“聖別” を与えられた初陣に携える御守りだという。

心遣いに重ねて礼を述べて退出しようとするルナンサンへ、


「正式な騎士とは認められないが、家族への土産話に良かろう」


セルジオの計らいで、出立式に加わることが認められた。





選抜された騎士とルナンサンの前に喇叭の合図で、セルジオが姿を見せる。

セルジオの訓示を受け、騎士の代表が宣誓する。

同行する騎士も声を揚げて忠孝両全の誓いを立てた。


次にセルジオの家門をあしらった旗と剣が手渡される。

二つは彼らの身分の証と通行許可証になり、領内を移動できるのだ。

メガロポリスを出て、近隣都市を往訪するのは初めてではないが‥。

ルナンサンは失くさぬよう、懐にしまい込んだ書類の再度確認をとった。

成り行きといえど‥これほど緊張する出立というのも初めてだ‥。

当直の騎士らが整列して見送る中を、

セルジオを先頭にしたルナンサンら一同は総督府を出て聖堂へと向かう。



総督府の出立式と同様に、聖堂では神殿騎士隊の出立式が行われていた。

出陣式は、教会に所属する神殿騎士隊のための儀礼だ。

ルナンサンらは聖堂の外で待機して、続く観兵式典から参列する。

このような内幕にも、ルナンサンには初の経験であるから感心しきりだ。

正規の騎士であっても、観兵式の行列に加わるのは持ち回りではない。

軍士官を除けば、坐国王の近衛騎士入隊に次ぐ名誉なことだ。

そう語る騎士見習いの青年に緊張した様子はなく、

むしろ嬉しそうで興奮を抑えきれないといった感じである。

名前を尋ねてみた。


「騎士見習いのマデュークです。微力ながら道中お護りします」






楽隊が現れて楽器の調子を合わせ始めた。

やがて神殿騎士の従者が、続々と主人の馬を曳いて列に並ぶ。

周囲の慌ただしさにルナンサンの心は忙しなく、どうにも落ち着かない。

騎士隊長を窺うが慌てる素振りはない。


‥うむむ。行進の始まる前に気疲れしてしまいそうだ。


正午を告げる鐘が響く中、聖堂前で動きがある。

ファフロベティウスと主だった神殿騎士らに続いて、

セルジオとメルチェコ司教と修行僧たちが建物から出てきた。

側にいた騎士達が立ち上がり整列したのを見てルナンサンは、

自分も列に並ぼうとしたところをマデュークに止められてその場に控える。

設けられた壇上にセルジオが立ち、断固戦う決心を表す。


「そなたらは邪悪な誘惑に抗い危険を冒しても、勇気をもって進み、

 メガロポリスの市民のため聖軍を連れて戻る使命に赴くっ!」


一名一名、名前が呼ばれ、役職のある者は家族も称えられた。

任命を受けた団長のファフロベティウスが壇上で決意の言上を述べて、

最後にメルチェコ司教が、老齢を感じさせぬ覇気で激励した。


「皆、今日ここに集う戦士の勇気を称えよ。勇姿を見送り旅の無事を日々祈れ」


「彼らの旅路に、神のご加護あらんことを。坐王国とメガロポリスに祝福あれ!」


団員となったルナンサン一同は声を張り上げ気勢を上げる。


 「「邪悪に立ち向かい、必ずや使命を果たし戻って参りますっ!」」


神殿騎士団の旗手とセルジオの旗印を掲げた兵士を先頭に、

ファフロベティウスら神殿騎士隊と、ルナンサンたち一団は大通りへ出ていく。

隊列を整え、喇叭の合図で楽隊が音楽を奏でると行進が始まった。

わあっと、聖堂の外に集まった群衆からは大きな歓声が起こる。

篝火と松明で照らされた大通りを多くの市民が詰めかけ、紙吹雪が舞う。

人々は口々に見知った団員の名を呼んで声援を送った。


思っていた以上の感激を覚え、ルナンサンは踊りだしたいほどだ。

湧き上がる高揚感に、市民らの振る手に応えながら家族の姿を探す。

大聖堂から出立し行進する団員達へ、

歓呼と手を振る市民の行列は延々と、途切れることなく続く。

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