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マニ宝珠⑰ [小説「マニ宝珠」]

ルナンサンが部屋の扉を軽く叩くと、中に入るよう促す返事がした。

小さく軋んだ音を立てて開いた扉から室内の暗がりに目を凝らす。

インクの匂いに視線を移すと、木版に使う作業具が収められている。

また、狭い部屋の中は壁一面に書棚が並ぶ書庫でもあった。

部屋の隅で人影が動いている。

据付の角灯に照らされた人物は一人で、

簡素な装いであるが‥深紅の帽子は紛うことなくメルチェコ司教である。

進み出て恭しく一礼するルナンサンに、

小さな卓で読書をしていたメルチェコ司教は手を休めて微笑む。





老司教の物腰の柔らかな挨拶と労いの言葉をかけられ、

ルナンサンは何やら照れくささを覚えてしまう。

勤めであるので、お気になさらないでくださいと答え、用件を伺う。

司教は頷いて、丸椅子に掛けるように促した。


「そなたに預ける腕輪(バングル)の使い方を説明しておきたかったのだ」


懐から大粒の瑪瑙が嵌まった真鍮の腕輪を取り出して、卓の上に置いた。


「特に訓練を必要としない。そなたが強く念じれば‥この、

“天眼石の腕輪”に込められた神気が呼応して御業が発現するだろう」


腕輪に込められた力は悪しき澱み‥即ち、

異界の魔力に反応して異変を感知したり、魔術を破る “聖具” だという。


「意識を集中する際には、やや無防備な状態となるだろうから‥‥」


司教は騎士達にではなく、そなたに預けることにしたと明かした。

ルナンサンは大任を任された事に、感謝を述べて拝受する。

別れ際には司教から祝福を受け、

励ましの聖句に勇気づけられたルナンサンは、興奮気味で家路に着いた。





小男はファフロベティウスの指示を受けて、

若い下廻りを引き連れ、ルナンサンの上役の邸宅にやってきた。

警備に就いていた同僚へ声をかけた小男は、


「ファフロベティウスの旦那に呼ばれて、つい深酒をしてしまってな」


宿舎に戻れないから担当を代わってほしいと頼み、酒瓶を握らせる。

任務途中の突然の提案に訝しんで、

初めは渋っていた同僚だったが、この任務は退屈な上に寒さが辛い。

本来ならば、小男は明日の出陣式で路上の警備を担うことになっている。

交代すれば、居並ぶ見物人の前で通り過ぎる行列を見れる役得に加え、

行進の様子を酒場女に自慢もできるだろう。


同僚と同僚の下廻りが帰る姿が見えなくなるのを確かめ、

小男の指図で馬車が邸宅の前に停められる。


「奥様と御子息の二人、御息女が一人の四名です」


小男に脱出の手引きを依頼した使用人が報酬を手渡す。

袋の銀貨を確かめた小男は御者の男へ駄賃を渡すと、

使用人が御者台に上がり、家族を乗せた馬車は走り去った。


事情を知らぬ若い下廻りらが動揺する素振りを見て、

小男はまとめ役に酒瓶を手渡すと、口外しないよう警告する。


「この先も仕事したいだろ。なにも見なかった‥、分かったな」






「どうもありがとう。世話になったね」


御者を労うと、司教への感謝を伝える。

聖堂へ戻っていく馬車を見送ると、ルナンサンは我が家に入った。



「お帰りなさいませ、旦那さま」


スーサンが、いつものように出迎えてくれる。

外套を預け、今日はもう外出する用事はないが、

また火急の呼び出しがあるかもしれないことを伝えておく。


「承知しました。‥実は、奥様は気分が優れないご様子でして‥」


明日の式典には参列しないということであった。

青空の下で華やぐ出立という体ではないが、

多くの市民の詰めかける沿道を行進する初の誉れである。

‥残念だが、自分の身を案じてくれている妻に、

浮かれた自分の様子を見られるというのは好ましくないだろう。


スーサンには、妻は心配性で気に病んでいるだけだと安心させる。

ところが、娘たちは街頭へ出て行進を見送りたいとせがみ、

困った妻メアリはステラとスーサンにお守りを任せたようだ。


「明日は人で混雑するだろう、娘たちの事をくれぐれも頼んだよ」


お任せくださいと、スーサンは胸を張って応える。

愛しい娘たちが元気であれば、妻も塞ぎ込むこともなかろう。

留守の間の家事はスーサンとステラが居れば、心配は要らない。

そこへ聞き慣れた呼び鈴の澄んだ音が響く。

ステラが食事の用意ができたことを知らせにきたのだ。


いつものように娘たちが我先に部屋を飛び出し、母親の寝室に駆け込む。

やがて子供に手を引かれて妻のメアリが、ゆっくりと階段を下りてきた。

その足取りは危なげなく、甘える娘たちに笑顔を見せている。


「お帰りなさい。あなた」


「ただいま、メアリ」


ルナンサンは娘たちの頭を撫でてやり、メアリと抱擁を交わして身体を気遣う。


「ええ、いくぶん落ち着きました。それに‥」


メアリは子供たちに弱気な様子を見せられないからと言って、

改めて式典に出席しないことを夫に告げた。

ルナンサンは頷いて理解を示し、娘たちを抱き寄せる。


「父さんは明日、お日様を隠した悪いヤツをやっつける味方を呼びに行く」


数日の間、家を留守にすることを明かした。

強い騎士様と一緒だから、何も心配は要らないよと微笑む。

途端に娘たちは、ズルい!一緒に行くっと不満を漏らす。

愛しい娘たちを、笑って優しく抱きしめた。

娘たちは顔を見合わせ、何か察したのか困惑した様子だ。


ルナンサン、感傷的になるな。

明るく振舞わねば‥努めて、冷静に‥明るく接するんだ。


上の娘へ、好き嫌いを言ってステラとスーサンを困らせないように。

下の娘へ、悪戯して皆を困らせないように。母の言いつけを守りなさい。

そう言って頭を撫で、頬っぺを突ついてやる。


「ほら、母さんが寂しそうだよ」


それを聞くと娘たちは父親の胸元を飛び出し、母親の元に駆け寄って甘える。

必ず、無事に戻る。きっと援軍を連れ皆を、家族を救ってみせる。

胸の内に、決意が漲るのを感じた。


さあ、食事をいただきましょうと久しぶりに家族揃って食卓に着く。

燕麦と芋と豆が入った温かい野菜スープ。

パンにチーズ、茹で卵が添えて出された。

「わ――っ」「やったーー!」

大好物のレーズン入りビスケットだ。娘たちの歓声に皆が笑顔になる。





食事を済ませたルナンサンはスーサンを誘い、

取って置きの上酒を開けて酌み交わした。


「スーサン、私が恐れるのは家族の健康だ」


反逆を企てた咎で、蛾国の王族が最高刑である終身刑となり、

王城の地下牢に幽閉された話を聞いたことはある。

その話とは比べられるはずもないが、

陽の光を十日以上も浴びなかったなど誰も経験がない。

身体へ即座に大きな影響が出るとは思えないが、精神はどうだろう?

信心深いスーサンは心優しいメアリや純真無垢な娘たちなら、

聖蛇ヒュギエイアが護ってくださるので大丈夫ですよと語る。

神の教義や、精霊の存在への信仰は強く意識したことはない。

万一の事を考えて頼るとすれば‥、セルジオに他はいないだろう。

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マニ宝珠⑯ [小説「マニ宝珠」]

ファフロベティウスが静かに杯を重ねているのを見て、

防護守備兵長らは癇癪が収まったことに安堵の息をつく。

セルジオに関する話題を避けて、無駄話を続けた。


自慢話から未明の火事の話題になったのだが、

小男は鎮火した後になって到着したので話についていけない。

この小男は警備隊長デュフマスの部下である。

一隊三名を預かり、当日は貧民街と反対側の貴族街で警邏していた。

小男は疎外感に苛立ちを覚え、酔いの回った頭で先日の、

ある貴族の使用人から持ち掛けられた話を思い出す。

もっと耳寄りな話を知っているぞと話に割って入り、意気込む。

鼻息荒い小男が、いつもの見栄坊が始まったぞと飲み仲間は嗤う。

酔っている仲間から半ば煽られ、憤慨した小男は立ち上がる。

まあまあ。聞いてやろうと防護守備兵長が場を収めた。


「え~公にはされてない話ですが‥、」


得意げに勿体ぶり、十分に焦らせておいてから切り出した。


「王弟派と通じた嫌疑で、幾人かの役宅の監視を任されているんです」


大した話題を振らぬ小男が今、聞き捨てならないことを口にした。

防護守備兵長と飲み仲間は押し黙り、呆然とした様子で見つめている。

ここで話題にした本人も気づき、放心したまま固まった。

特種ならば負けじと意地を張って、うっかり小男は口を滑らせたのだ。



「ほお? 詳しく話してみよ」


その声に、一同は雷に打たれたような心地がした。

ゆっくりと、ファフロベティウスが小男の向かいに腰掛ける。

身を竦める小男と対照的に、

ファフロベティウスの大きな身体はまるで巨熊のようだ。

防護守備兵長らも何も言わず、聞かぬふりを決める。

小男は観念して、自身が明かしたことは内密にするように頭を下げた。

了承したファフロベティウスは防護守備兵長と他の者を帰らせると、


「‥さあ、話せ」


猛獣のような唸り声に、胆をつぶした小男は知っている全てを白状した。

小男の話によれば市区画整備部の園芸部署にいた職員らが、

王弟派に通じた疑いで家族に監視が付けられたのだという。


「‥? 辺鄙な田舎の園芸職員が、王弟派とどのように通じるのだ」


ファフロベティウスの疑問は当然である。

王都で拝国と坐国王族間の姻戚が結ばれた事は認知しているが、

長らく政争と無縁であったが故に、政情に疎いのも無理からぬことだった。

小男を追及しても他に何一つ知っていることはなく、釈然としない。

それならば、事情をよく知る者に聞くまでだ。

ファフロベティウスは小男に何事か指示をすると、

酒瓶と銀貨を握らせて帰してやった。

――これは啓示だ。神が与えたもうた最高の時局であろう。


「フフッ‥ハハハ! ッハハハハ!!」


ファフロベティウスは込み上がる高揚感から、哄笑を抑えきれなかった。





暗闇の家路を、ルナンサンは道を誤ることのないように注意深く進む。

やがて見えてきた我が家の前に、

見慣れぬ馬車が止まっているのを見てとる。

はて? 何か急な要件でもあるのだろうかと思い、近づく。

御車台に座る男が会釈してきたので、会釈を返し労いの言葉をかけた際、

ちらりと見えた馬車の扉に教会の所有であるのを示す十字に、

羽ばたく白鳥が対で描かれた紋章を認めて驚いた。

家から出迎えたスーサンが緊張した面持ちで、

メルチェコ司教が至急のお召しでございます、と馬車に乗るよう促す。

「うむ、すぐに伺うとしよう。皆には心配要らないと伝えてくれ」

いってらっしゃいませ、とスーサンに見送られ馬車が走り出した。


馬車は思ったより簡素で‥、

乗り心地は全く良いものではなかったが僅かな間で聖堂に到着する。

「案内を寄こしますので、この場で暫しお待ちください」

御者はルナンサンを降ろすと、厩舎へ走り去った。

一息ついて尻を労わりつつ、待っていると近づいてくる人影がある。

一人の修道士が、ルナンサンに挨拶して別棟の居住部へ案内すると告げた。

「裏手からお入りいただきますので、付いてきてください」

歩道に石畳が敷かれてはいたが辺りは当然、暗闇だ。

ルナンサンは暗がりに目を凝らして慎重に付いていく。

修道士の足取りは確かで時折、足を止めてルナンサンを待ってくれた。


しばらくして門扉前に着くと修道士は鍵を開け、

迎えを寄こすので待つように言い残すと入って行ってしまう。

‥‥随分と外界から隔絶された場所だ。

ルナンサンは少々うんざりしつつも、待っていると再び門扉が開かれる。

扉から出てきたのは、僧服ではない簡素な装いの老婆であった。

老婆は黙って手を差し出す。


‥目が、見えていないようだな?


差し出された手をルナンサンが取ると、くいくいと何か合図をしてきた。

どうやら、このまま付いて来いということらしい。

老婆に手を引かれ、やがて小さな一室に案内されたルナンサン。

老婆は掴んだ手を離すと、部屋を指さして一礼すると立ち去った。

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マニ宝珠⑮ [小説「マニ宝珠」]

セルジオに休む間もなく、

補佐官が市政官を伴って荷駄隊設立の進捗を報告にきた。


荷車は十分確保され、人夫の数も都合がついたようだ。

隊の補給は中継地であるクルルゥクで管理されている倉から、

食糧を持ち出すことにより空荷で出立できる手筈という。


満足な報告にセルジオは頷いて、補佐官に下がるよう促した。

すると市政官が引き留め、市民から要望が出ていると言う。


「一部の市民から、城を出たいとの申し出があります」


荷駄隊に便乗して城から避難したいという意向なのだ。

‥身勝手極まる。

苛立ちを覚えつつも、想定していた事であった。





為政者の強い権威を保つため権益が与えられた彼らは、

権益に連なる勢力を拡げて強固な結束を持つ。

メガロポリスのみならず、

周辺都市の有力者、坐国政府の官僚に口添えして、

便宜を働きかける根回しに一役買っている。


御歴歴の彼らの結びつきは国の境を越えて広く、根が深い。

今や、どの国家権威であろうと大きな発言力を有していた。

彼らの“要求” はセルジオも無下にできぬ。





セルジオは感情を表に出さず命を下した。

馬車は質素なもので一台、外から板で窓を隠すこと。

家畜、家財の積み込みは一切認めないこととし、

道中は神殿騎士隊長ファフロベティウスの指示に従うこと。

今晩未明のうちに門の脇で待機しておくように伝える。

市政官は一礼して、退出した。

次いで補佐官に、ファフロベティウスには彼らの警備と、

混乱がないように車列の編成を通達するよう指示した。

続けて警備隊長のデュマフスへ、

城を出るまで彼らの警護をするように伝令を遣る。


午後四時(萌葱獼猴の刻)を知らせる振り鈴を鳴らすのが聞こえた。

ふとセルジオは空腹を覚え、部屋の隅に置かれた盆を見る。

クロッシュは被せてあるが、運ばれてからしばらく経つ。

すっかり冷めたスープを口に運ぶ、その合間も思案に暮れていた。


「軍糧さえ充分確保しておれば‥‥、或いは」


‥或いはヴァイスの進言を聞き入れ、

騎兵を率いて手掛かりを探りに出ていたなら‥‥

セルジオは独り言ちた。





神殿騎士隊長ファフロベティウスは、

防護守備兵長ら見知った者を屋敷に招いて杯を交わしていた。


「卑怯にも司教の前で命令しおって‥っ」


ファフロベティウスのセルジオへの厭悪の念は収まらない。

王室直属の白聖騎士団で一隊長を務めていたが、

上官の軍令違反の廉で連座して除籍となり、王都を離れた。

メルチェコ司教のメガロポリス赴任に伴う警護の任務に就いたが、

そのまま神殿騎士隊長の後任に就くことになってしまう。


夜毎の殿上に絢爛たる権門と舞踏会に勤しむ日々から、

首府どころか遠くは最前線の辺境に流され、任地を動く自由もない。

それならば軍人として戦功を上げようにも、

神殿騎士は教会の警護を名目する範囲での軍事行動に限られる。

そしてセルジオは専守防衛に固執して兵を出さぬ。


さりとて、守るばかりで勝利はできない。

セルジオも反撃に城を打って出る。


「城の留守を預かるファフロベティウス殿が居るお蔭です」


セルジオ出撃で空いた城の防御は、

防護守備兵長達とファフロベティウスに任せられるのだ。

防護守備兵長は理解を示して、

総督も心中ではファフロベティウスを信頼されていると宥めた。


「我ら民兵の指揮はファフロベティウス殿にかかっています」


おだてられて、安請け合いするほどの間抜けではない。

ファフロベティウスの積極的に外征を仕掛ける提案を、

セルジオは聞き入れることはなく、城詰で六年の月日を鬱々として過ごした。

その間に起きたことといえば、賊退治や密偵の捜索くらいなものだ。

鼠捕りで、教会警護のため出動せねばならぬのも鬱陶しい。

ファフロベティウスの不満は鬱積していたのだった。


「術者を仕留めれば全て事なきに済む話でないか」


ファフロベティウスの発言に、防護守備兵長らは驚いて諫める。


「許可を得ずに、術者を捜索するのはなりませぬぞ」


戯れだと、ファフロベティウスは腹立ちまぎれに言い放つ。

防護守備兵長らが安堵する様子を横目に見つつ、

白聖騎士団への復帰には、絶好の機会とも思えてきた。


(‥現状、城に篭っておっても功は立てられぬ)


セルジオが手をこまねいている状況を、

白聖騎士団であったファフロベティウスが打破する!


――またとない名誉挽回の好機。


ファフロベティウスの目が輝く。

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マニ宝珠⑭ [小説「マニ宝珠」]

メガロポリスが暗闇に閉ざされてから、三日目の朝がきた。

昨日の朝は、戸惑いつつも市民は平静さを保ち、

暗がりの中で不便ながらも仕事に勤しむ様子も見受けられた。

しかし、今朝は少し様相が違う。


昨晩未明に、貧民街の方で火事があったらしい。

消火に当たった者の話では家屋は全焼し、周囲に獣の臭気が漂っていたという。

噂は広まり、不安を煽るような流言が囁かれるようになる。


路地にファロティエ(角灯持ち)の掛け声と、

シフレの笛の音に続いて、アノンサー(公示人)の声が高らかに響く。


「明日の正午。聖堂前にて、誉れ高き聖堂騎士団と!」


「総督セルジオ様のお使者が、援軍を迎えにアルマラカルへ向かわれる!!」


――パパパパパゥワー


すかさずファロティエが、ラッパを吹いて音頭をとる。


「我ら市民は、騎士団と勇者の身命を賭した使命に報いようではないか!」


「皆集え!明日の正午、この歴史的な瞬間に立ち合おうではないか!」





城内は暗闇に落ちたままだが、朝の礼拝の鐘が鳴っている。

窓から外の様子を窺がっていた子供は、母親に尋ねた。


「ママ、かねがなってるよ?おそと、まっくらなのに朝がわかるの?」


「修道士様が毎日当番で、砂時計をひっくり返すから時間がわかるの」


幼子を抱きかかえた母親が、

窓から身を乗り出している坊やの腕をつかんで椅子から降ろす。


「大聖堂には、もっと大きな大きな砂時計があるのよ」


窓掛を閉め、坊やに家族のいる部屋に戻るよう促す。

ふぅ~ん。と、分かったような分からないような反応を示す。

そして坊やは渋りながらも、母親に従って部屋に戻っていった。

やんちゃ坊主の反応をみた母親は気がついた。

メガロポリスの名物“大聖堂の一年砂時計”を間近に見たことがないのだ。


「じゃあ、お日さまがいなくなっても、みんな、おねぼうしなくてすむねっ」


無邪気に笑う坊やに一計を案じる。


「お利口にしていられたら、ご褒美に見に行こうね」


やんちゃ坊主は、まだ信仰や地元の名所にいまいち関心はない。

しかし、ご褒美がもらえると聞いて、目を輝かせる。

祭日の聖堂前には蚤の市が立って、行商の露店も並ぶ。

その日は、やんちゃ坊主を魅惑して止まない飴細工売りがいるのだ。


「ねえねえ!飴も買ってくれる~?」


キラキラした眼差しを向けてねだる坊やに、

母親は思惑が外れたことに小さく溜息をつくが、今回だけはと仕方なく応じる。

歓声を上げて喜ぶ坊やの頭を優しく撫でてやると、

その手を引いて食事を待つ家族の元に戻った。

燭台の蝋燭に火が点り、家族全員が揃って食卓を囲んだ。

馬鈴薯のスープとパンを取り分けられると、食前の祈りを捧げる。

嵐が過ぎ去るのを待つように、一日も早く災厄からの解放を願う祈りが続く。





ルナンサンは総督府に登庁し、セルジオの執務室に呼ばれた。


「急遽、州府マカラミュロスへ急使を送ることに決めた」


二名の騎士と見習い三名に加えて、使者一名が同行することになった。

彼らはアラマルカルに着いた後、使者の護衛に付いて別行動をとる。


「任務を達成したら、使者がマカラミュロスから戻るのを待たずに帰ってくるのだ」


承知しましたとルナンサンの返事を聞いてから、

セルジオは不意に上司の容体について尋ねてきた。

‥困ったことになった。上司は体調を崩して床に伏しているわけではない。

ルナンサンはとても嫌な予感がした。


(‥これは虚偽の欠勤はおろか、城外へ出ていることも露見したのやも‥‥)


已むを得ず、虚偽の報告をしたのは自分だ‥‥。

さらに上司に同行している同僚らを含め、全員の口止めを約束させられている。

彼らの分まで、自分が虚偽の報告を提出していた。


「‥申し訳ございませぬ。病気との報告は嘘でございます‥‥」


頭を下げるルナンサンにセルジオは、他の職員の欠勤理由についても詰問し、

ルナンサンは正直に虚偽を認めた。


「して、彼らは城を出てどこへ向かったのか?」


当然の質問だが、これにルナンサンは返答に窮した。


「‥申し訳ございませぬ‥‥何も聞かされてないのです‥‥」


情けなく悔しい事だが、ルナンサンの職場での立場は雑用以外の何でもなかった。


だいたいの事情は分かったとして、セルジオは忠告する。


「ここメガロポリスの統領は私だ。職員に問題があれば、必ず私の耳に入れるように」


畏まりましたと、安堵からルナンサンは肩の力を抜く。

続けてセルジオは、彼らが王弟派に接触した疑いが持たれているのだという。


「坐国は今、内憂を抱えている。官吏が道義にもとる行動をとれば、市民は動揺する」


上司らの家族には監視を付けたとして、彼らと関わらないことを厳命された。





坐国の宮廷では病床にある現坐国王の妃の娘婿である、

摂政の上流階級出身貴族の派閥と、前王の弟を支持する派閥が対立していた。

王弟派を支持するのは坐国東から南部に集う有力者に加え、

第一位の貿易相手国であり姻戚関係で通じているウガン(拝国)だ。


セルジオは平民出身でありながら卓越した指揮で功を成して、

軍貴族で上官(主人でもあった)の妻を娶り、名門を継ぐに至った誉れある将だ。

今のところセルジオは、どちらとも態度を明らかにせず中立の立場を取っている。

だが、聖堂騎士隊は貴族出身者のみで組織された軍隊で、

実質的に隊を預かるセルジオの立場では、現坐国王の王党派に属するといえた。


アラマルカルを統轄するビュレンはセルジオと同じく、

軍人から諸侯に列し領国を一任された相応の人物だ。

ビュレンはセルジオより二十余り年が離れていて、

貴族階級出身であるから当然、王党派だろうと思われるが事情が大きく異なる。

影響力のあるアラマルカルの商会はその販路が拝国で占められているため、

便宜上であっても、王弟派に属しているとみられる。





アルマラカル領主ビュレンへ宛てた書簡が手渡される。

続いてルナンサンが提出した取引品目と相場の試算を示した書類と、

部下の作成した見積もり書を吟味のうえで、

セルジオの承認の署名がされ、任命書が渡された。

次に、取引について説明がされた。


「アルマラカルの商人は耳が早く、抜け目がない」


大口の商取引は本来、商会を仲介する貴族や糧商を通じて行う。

生きていくうえで欠かせない穀物、家畜‥特に塩の商いは買う側の立場が弱い。

新参のルナンサンでは侮られるだけだろうとしつつ、


「此度の急な買い付けとなると、誰に任せようとも弱みにつけ込んでこよう」


セルジオは既に割り切って、当面の危機を乗りきることに注力している。

取引が期待に沿えなかったとしても、

また次の手を打つだけだと、セルジオはルナンサンに任せると励ました。


ルナンサンは感激で胸が熱くなるが、期待に沿える自信は全くなかった。

仕事がら石工ギルドに顔馴染みはいるが、取引に便宜を図れる伝手がない。

アルマラカル商会に顔の利く仲買商とも親密な繋がりはない‥。


「だが、そなたは“業商人”と面識があるようだな」


業商人という呼称に思い当たる人物に、ルナンサンは困惑を隠せない。

だが、セルジオは真剣な表情である。





商人には階級と同義の、紳商と尊称される位がある。

各国の王侯貴族と誼を通じ、要請を受けて時に外交を担うこともあるという。

紳商に対して、業商と称されるのには対極の尊称でもあるからだ。

密猟や盗品の売買など阿漕な取引を生業とするが、害悪と断じてはならない。

裏社会にも掟があり無法ではなく、

経済の一端の担い手であるし、政治に関わることもあるという。





「二ヶ月前、南国のトルリシテア(石国)に商人を遣った」


セルジオの話では今年の冬を越せる十分な糧食を賄える手筈だったという。

交渉が難航するようであれば担保として提示し、

利息については、メガロポリスとの商取引で課される税の免除で贖うとした。


「以上で、署名入りの証文をしたためた。不足分は借り入れとして、万全を期せよ」


ルナンサンは差し出された書類をしっかりと受け取って、

一礼すると部屋を後にした。

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マニ宝珠⑬ [小説「マニ宝珠」]

「刀自よ、魔術士の居所は掴むことができたか?」


セルジオの問いに占い婆は物憂げな感じに、

魔術士の存在を確認できなかったと答えてから、

何か言い淀んで、口を噤んでしまった。


セルジオはその態度が重大な手掛かりを得ているものと判断し、

小金貨を懐から出して話の続きを催促したが、どうも様子がおかしい。

占い婆は小金貨を確かに見た。

しかし、頬杖をついて何か思案する素振りを見せる。


(この、業突く張りめが‥‥)


さすがにセルジオも怒りを感じたが、今回は時間がない。

懐から、もう一枚。無言で、二枚の小金貨を卓の上に置く。


「‥‥要らないよ‥」


占い婆は思いもかけない反応をしたのだ。

セルジオは耳を疑う。思わず、問い返す。

だが再び、小金貨二枚の受け取りを断られた。

セルジオには分からない。

しかし、占い婆に何か只ならぬ事情が生じたことは察した。


「刀自よ。いったい、どうしたのだ‥話してみよ」


セルジオは占い婆の手を取って、小金貨一枚を握らせる。


「律儀なもんだねえ。まあ、私のことはいいのさ」


穏やかな笑みを見せて、占い婆は話を始めた。


「私ゃ、この町が好きさ。この町は金さえ払えば商売できる」


税金がやや高いのは気に入らぬと吐露し、セルジオは苦笑する。


「‥彼奴がなぜ町を欲しているのかは分からないね。だが‥」


相手は人間ではない。戦うのはお止めと、忠告した。


これにセルジオは少々、心が騒いだ。

軍人として戦わずして城を明け渡すことなどできようもない。

だが、心の隅にあった市民の生命を守る使命ある立場上は、

市民を守る兵力を残して対処することは困難だと認識していた。


できるかどうかではない。魔術士は必ず撃退する!


セルジオは力を込めて言った。

それならばと頷いて、占い婆は城の外の様子について伝える。

恐らくは罠が仕掛けられているだろうと前置きして、

魔術士の手掛かりはピキェロの村一帯に在ることを明かした。


そして占い婆は自分に、もう時間がないと告げる。

どういうことだと問いただすセルジオへ何も聞くなと制して、

懐から巾着袋を渡すと耳打ちした。





客が家の外へ出ていく。

いつものように見送りに出た友人を、客は供に命じて連れて行こうとしている。

友人は狼狽して、こちらに何か叫んでいたが、一緒に連れ出された。

その様子を見届けて、暖炉に薪をくべて少しでも火を強くしておく。



‥‥早いね‥。


屋根に何か重いものが伸し掛かる大きな音がした。

再び、家が震えて壁が、柱が軋んだ。

天井から吊るした御守りは、ほとんど落ちて粉々になった。


‥‥地の底から‥、

‥いや。すぐ近くから聞こえた。


悪霊たちの狂った笑い声と怒号。バンシーの慟哭と囁く声。

一瞬、動揺を見せる占い婆だが、

扉と柱に張られた護符を確認すると、椅子に腰を掛けて煙草を燻らせる。


ハ‥ウウウ‥‥ ハ‥ハッ‥‥ウウウッ‥


窓の外で大きな獣の息づかいがする。

しかも足音からして複数いて、家の周りを取り巻いている様子だ。


占い婆はカードを卓上に並べ、心を澄ませて町の未来を占う。


‥そして‥‥


息をつくと、静かに暖炉の火を眺めていた。

膝を悪くして、腰の具合も良くない。

介助なしには歩くのもままならない。

目の盲いた友人も、運命からは逃れられようがないだろう‥‥

両目から、自然と涙が零れ落ちた。。


――ドンドンドン! ドンドンドン!


突如、何者かが家の扉を乱暴に叩いた。


「刀自よ。居るのだろう?開けてもらえないか」


先ほど出て行った客の声が掛かる。


――ドンドンドン! ドンドンドン!!


占い婆は震える手で小金貨を握りしめて、

懐に忍ばせた破邪の御守りに手を当てて一心に祈る。


‥我が身、我が魂。浄化の炎となって、悪しき霊を灼け!

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マニ宝珠⑫ [小説「マニ宝珠」]

セルジオはポソポソと呟く占い婆を静かに見守る。


(‥少し、時間がかかっているようだが‥‥)


そう思った時、微かな異変に気づいて、ふと視線を外す。

部屋の様子が、おかしい。

暖炉の火があるにもかかわらず冷気を感じた。


‥ッ ‥‥ポ ‥ ‥‥ッ ‥ ‥‥ ‥ッ


蝋燭の火が忙しなく揺らめき、室内の影が騒めくように動いている。

‥気のせいとは思えない。セルジオは直感した。

得体の知れない何か、この場に異質な気配を感じるのだ。





占い婆は念視を一時中断して、汗を拭う。

客の方を窺うと、無言で自分を見ていた。


(なるほどねえ。確かにこれは、常人が及ぶ相手でないわ‥)


正直、冷や汗をかいた。額から汗が頬を伝って零れ落ちる。

つい弱気になってしまったのは、まずかった。


(‥‥感づかれたかもしれないね‥)


今夜は体調も良いことだし、何より小金貨の報酬が懸かっている。

大見得を切っておいて、何の手掛かりも得られぬでは不甲斐ない。


(いいよ。私の幽体浮遊の秘術を以て、その正体を暴いてやろう)


魔女と謗られ、町を転々として、ようやく腰を落ち着けたのだ。

小金貨では安い気がするが、たまには奉仕するのもいいだろう。


再び水晶に向かうと渾身の念を込めて、目を凝らす。


(‥重いね‥‥なんて禍々しく澱んだ気配だろう‥‥)


暗い。探る者の視界を妨げる邪念の帳。

竜巻の前触れを思わせる狂気をはらんだ暴威が、

侵入者の行く手を阻んで、挑もうとする意気を萎縮させる。

抗う術が無き者が闇の力に捕らわれたなら、正気を保つことも敵わない。

占い婆の思念は家を抜け出ると、そのまま城の外へ飛び出していく。

魂の衣は光り輝く人魚を模って、邪悪な波動の源流へ向かって進む。


――速く! ――彼奴の目にも止まらぬほどに!!


闇が、疾風の輝きを見とめて掴みかかろうとする。

しかし、その光る帯の軌跡でさえ捉えられずに魔の手は空を切った。


(――よし! 抜けたわっ)


城から、そう遠くはない森の中だ。ピキェロの村の方角で間違いない。

だが、ここで占い婆の背筋に冷たいものが走る。


(きっと、替え玉の可能性があるね‥‥)


相当に狡猾な魔術の使い手であろう。

強い邪念に釣りだされ、罠にかかった予感がしてならない。

念視の試みは油断から、暴風のような魔力で弾き出されたのである。


(‥どうしたものだろうね‥‥)


もっと近づかなくては、存在の明確な姿まで見通すことができぬ。

しかし、これ以上 覗き見ようと試みれば見つかるかもしれない。

見つかって、もしも魔物が“邪眼”を向けてきたなら命が危うい。


(‥フン。引き返そうかね)


無茶などする必要も、客の頼みに命を懸ける義理もない。

占い婆は部屋で水晶に向かって念を込める自身の姿を感じ、

ゆっくりと意識を引き戻していく。





占い婆の呟きは、次第に高熱でうなされる呻き声のようになり、

その只ならぬ様相には傍に控える老婆も、落ち着かぬ様子で固唾を飲む。


やがて占い婆が大きく息を吐いて、

かざした手を下ろすと魂が抜けたように椅子へもたれ掛かった。

しばらく放心状態で天井を仰いだままで、

ようやく被っていたフードをとると額の汗を拭う。

その疲労の様子にはセルジオも不安に駆られ、空気が張り詰める。


異変はその直後に起きた。

占い婆の手元を照らしていた角灯の火が、ボッと音を立てて消える。


――ドン!


同時に大きな音がして、地震のように家が震えた。

天井から吊した御守りの幾つかが落ちて粉々になり、

戸棚からも何枚か皿が落ちて床に破片の散らばる音が響く。

不意に目の前で起きたことで、セルジオも驚いて目を見張った。

老婆が慌てふためくのを占い婆は落ち着かせると、

険しい顔のままで、セルジオに少し待つように言う。


ふう、と息をついて占い婆は角灯を調べだした。

セルジオは黙って、その様子を見守る。


(‥‥油が切れたわけでもなし。‥芯にも問題はない?)


怪訝そうに窺っているセルジオと対照的に、

わりと落ち着いた様子で占い婆は再び角灯に火を点す。

そして蝋燭が倒れてはいないか、

室内を一通り見回して安全を確かめていた、その時。


――パキッ


再び、大きな音に驚いた一同が音の元に気づいて驚愕した。

水晶に亀裂が入っている。

これには占い婆も顔面蒼白で呆気にとられていた。

異質な気配は既に消えている。

だが、しばらくの間 誰も言葉を発せず、

呼吸すら潜めるようにして動くことはなかった。

この場にいる全員が、悪意を持つ者の意思を感じ取って、

強烈な魔の力に恐怖し、肝を冷やしたのだ。





セルジオは室内を注意深く見回し、耳を澄ませて安全を確かめる。

静かにしていた老婆が落ちた食器の破片の片付けをはじめ、

占い婆も大きな溜め息をついて椅子に戻って腰を掛けた。

セルジオも一連の不可解な現象が落ち着いたと判断し、一息つく。


「いったい、何があったのだ?」


肩を落として憮然とする占い婆へセルジオが問うと、


「‥‥見つかって、追い回されただけさ‥」


うまく撒いたと思っていたのだ、と。

疲れた様子はみられるが、

特に怪我を負ったようなところは見受けられない。

セルジオも、それ以上の詮索はせずにおいた。

労いの言葉をかけてから、占いの結果について尋ねる。


「刀自よ、魔術士の居所は掴むことができたか?」

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マニ宝珠⑪ [小説「マニ宝珠」]

なにか呟きながら、占い婆は集中力を高めていく。


「‥‥ ‥‥ ‥‥ ‥ ‥‥」


やがて、水晶にかざした手が下ろされた。

占い婆は小さく息をつくと、

使いに出した者らは無事に戻ってくるだろうと告げる。

ひとまず安堵するセルジオだが、肝心なことがまだだ。


「使いの者は援軍を‥、大勢の兵隊を引き連れて戻るか?」


セルジオの問いに対し、占い婆は首を傾げる。

水晶が映し出す使いの連れ人は、手練れの戦士に違いない。

連れている人数はそう多くないと話すと、客は具体的な人数を聞いてくる。


(‥‥やれやれ、面倒くさいこった‥)


占い婆は心の中で舌打ちした。

未来の予見には、かなりの集中力と根気強さが要るというのに。

加えて水晶を通して視るのは例えるなら、

近く寄って確かめようとすれば揺らめく陽炎のように朧気になる。

遠く全体を俯瞰してみようと思えば、

波間に目を凝らして漂流者を探すようなもの。


客が何を期待しているのか知る由はないが、

占い婆は使いが、複数の心強い味方を連れていると視たままを伝えた。


「刀自よ。大事なことなのだ」


セルジオはもっと明瞭な透視を求めた。

言葉は丁寧だが、占い婆としても力を尽くしたので反発する。


「幾つもの水の流れが、河に通じて大海にいたるのと同じことさ」


人間の行動から生じる結果は、

関わる人と選択肢の数だけ幾つかの未来が秘められているという。

それら全ての事象を見通すことはできないのだと。

だが、どうしてもと言うのならと占い婆は笑って、

見料を払えば再び占おうと持ち掛けてきた。


(‥うむむ‥‥どうしたものか)


この占い婆は多少 欲深いところも見られるが、

盲いた老婆を扶養しているのを鑑みれば善良である。

占い婆の説明は、セルジオも初めの頃は理解できずにいた。

だが、決断を迫られる立場になって気づいた真理だ。

最良の結果を得られずとも、城を捨てる事態は避けなければ。

これはメガロポリス市民の生命にも関わるのだから。

セルジオが支払った占卜料は二回分で、あと一度。


大儀そうに息をつくと、占い婆は煙草に火を点けて燻らせる。

狭い部屋に、紫煙が漂いだすとボロボロの歯を見せて楽し気に笑う。

能天気な占い婆の様子に軽い苛立ちも覚えたセルジオはふと気づく。

占い婆の自負心を煽ってやれば常よりも力を発揮するかもしれぬ。


「刀自よ。次は我らを脅かす魔術士の居所を探るのだ。できるか?」


懐疑的な物言いを占い婆は不快感を露わに、

人探しと失せ物探しは坐国一の腕利きだと言い切った。


「蛾国の賊を、我らは三日間で見つけだした」


それを聞いた占い婆は、ここに来れば四半刻で判ると笑い飛ばす。

セルジオは構わず、隊商に扮して略奪を働いた悪党を

自分の張り巡らせた監視の網で絡めとったと自慢げに語る。

しかし、今回はその網を食い破られたと打ち明けたうえで、

魔術士の居所を突き止められるなら、褒美を取らせるとほのめかす。


自慢話に白けた様子を隠さない占い婆だったが、

褒美と聞くや、吹かしていた煙草をもみ消して身を乗り出す。


「あたしなら、今すぐに見つけられるさ!」


魚だろうが、猫一匹だって見つけられると占い婆は断言した。

その意気込みに感嘆したセルジオは、急かすように催促する。

ここで疑り深い占い婆は褒美の確約を求めてきた。


「無論、褒美は約束しよう。だが、‥‥」


魔術士の居所を特定できるような結果でなければ、

既に支払った以上の代金は出さないとセルジオは挑発する。


占い婆は忌々し気に二言三言、呪詛を吐いていたが、

やがて気を入れ直し、即金で小金貨一枚を要求してきた。

頷いてセルジオは懐から小金貨を取り出す。


「‥おほぉお‥‥」


見るなり ため息を漏らし、占い婆の口元が緩む。

首尾よく運んだとセルジオは ほくそ笑む。

黄金の煌めきは効果抜群、占い婆に活を入れられたようだ。

占い婆は欣々然として水晶に向かうと、再び手がかざされる。

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マニ宝珠⑩ [小説「マニ宝珠」]

寝台に寝かせて、気弱になっている妻のメアリを勇気づける。


「‥‥どうしてですの? あなたは街路樹の管理がお仕事ではないですか」


妻の心配をよそにルナンサンは昼の出来事を明かした。


「セルジオ様から直接、仰せつかったのだ!」


人手と運搬にかかる会計知識を評価されたと得意げに胸を張る。

会議の後はメルチェコ司教から、直々に激励されたと饒舌に語り、

アルマラカルの人脈を買われ、運が向いてきたと笑った。


ルナンサンは、この機を逃さずセルジオに取り入り出世したいと考えていた。

しかし夫の情熱と反対に、妻メアリの反応は冷ややかである。

彼女は真っ向から否定したばかりか、城を脱出しようと言うのだ。


以前からメアリはメガロポリスを出て、

生まれ故郷である坐国東南のアスタットフに移り住むことを望んでいた。

長く閑職にあったルナンサンでも、田舎では篤実な人柄が見込まれて

充実した暮らしができるだろうと、彼女なりに家族を思ってのことである。

さらに信心深いメアリには、魔術で町が暗闇に閉ざされたのは衝撃だった。





(ううむ‥メアリに理解を得てもらうのは難しいようだ‥‥)


妻の心配は分かる。この度、立案された試みは危険が伴う。

不運にも犠牲になる‥かもしれない。それが絶好の機会なのだ。

アルマラカルとの交渉に相応しい者は他にいるだろう。

自分に白羽の矢が立ったのは、時間がなかったからだ。

総督府に各市政長からの推薦を募る時間がなく、明後日朝には出発する。

上司が不在で、代理に出席したことで得られた契機。

このような特異な役回りは二度と巡ってくることはあるまい。


(偶然であっても運命は、物事の成否は自分にかかっている‥!)


ルナンサンの意思は固かった。





扉が軽く叩かれ、スーサンが お茶を運んできた。

ルナンサンは妻を宥め、お茶を勧める。

昼間の子供たちと過ごした様子を聞いて妻の話に耳を傾けた。


部屋に香ばしいお茶の香りが立つ。

幾分、メアリが落ち着きをみせたところで、

城を覆う魔術についてセルジオが話した見解を伝える。

混乱はあったが、魔術で犠牲になった市民は一人も出ていない。

魔術は人の不安を煽るのが目的で、直ちに生命の危険はないと話した。

援軍を待つ間、気を強く持って辛抱強く構えていれば、

魔術士も諦めるだろうから帰りを信じて待ってほしいと頼む。

重ねて、子供たちの世話をメアリに負担させてしまうことを詫びる。


最後はメアリの根負けするかたちで了承を得られた。

物憂げな妻の表情にルナンサンは、必ず戻ると誓いを立てて励ました。





深夜のメガロポリス。

先の道を見に行っていた御者が戻ってきて、

道に物が散乱していて馬車での通行は難しいと言う。

総督セルジオは馬車の護衛に一名を残し、

三名の護衛を引き連れて貧民街の路地を歩いて行くことにした。

前もって警邏が人払いをしてくれているので、さしたる危険はなかろう。

だが、不意に現れる物乞いや癖の悪い酔っ払いは面倒だ。

やや足早に進むセルジオが向かう先は、顔見知りの占い師の家だ。


「ここだ」


ひしめく住宅の合間。結構な古い民家の前で、セルジオは足を止める。

暗闇に浮かんだ蛍火のような、

角灯の明かりに照らされた看板には【۞】八芒星のマークが見て取れた。

供の一人が軽く扉を叩いて、出てきた老婆に用向きを告げる。

‥しばしの間のあと、

老婆は主との面会が許され、セルジオのみ入室することを告げた。

セルジオが了承し、中へ案内される。

暖炉の前で椅子に腰かけ、火にあたっている家主が挨拶した。


「久方ぶりだねぇ。蛾国の賊が来たと聞いて、待っていたのに」


その折は力を借りるまでもなかったと、

素っ気なしに返答してセルジオは真向いの椅子に腰を下ろす。

フン!と鼻を鳴らすと占い婆は、大した腕だねと拗ねた様子で応じた。

セルジオは取り次ぎの盲しいた老婆に駄賃を握らせ、

持参した手土産の煙草と占卜料の銀貨五枚を卓の上に置いた。

占い婆は目を細めて一本の煙草に手を伸ばし、匂いを嗅いで悦に入る。


「我が使いは目的を達して、無事に戻るか?」


せっかちだねぇと肩をすくませて占い婆はクックと笑う。

煙草を戻して、水晶に手をかざすと凝視する。

蝋燭の火が揺らめいた。

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マニ宝珠⑨ [小説「マニ宝珠」]

月明りも届かない、メガロポリスの夜は真の暗闇だ。

ルナンサンは通い慣れた筈の道を幾度か間違えて、気が滅入ってしまった。

我が家の門扉の前に灯りが見えた時は、感動さえ覚えたほどだ。


軒先から吊り下げられた角灯が、門鉦(門跋)を照らしてくれていた。

転ばないように、慎重に足を進めて我が家の前に立つ。

門鉦を軽く叩くと、ややあって中から誰何する馴染みの声がかかる。


「私だ、スーサン。いま帰ったよ」


錠が開く音がして、燭台を手にした身の丈は低いが大きな体の男が出た。


「お帰りなさいませ、旦那さま。ささ、お入りください」


スーサンは私が差し出した角灯を受け取って、

側の花台の上に置くと、手際よく軒先の角灯を外して扉を閉めた。


「家の前に灯りがあって助かったよ。お陰で家を間違えずに済んだ」


気を利かせてくれたスーサンを労う。

無事にお帰りできて、なによりですとスーサンは照れくさそうに笑った。

皆は食事を済ませたか尋ねると、彼は首肯して奥の厨房へ声をかける。


スーサンは実直で信用のおける使用人であるが、

働いていた屋敷の側使いと揉めて、私が彼を引き取った。

用事を頼めば、用を済ませて真っ直ぐに戻ってくる。

給料日に暇を出してやっても、城の外へ出かけることもない。

強い自制心を他人へも向けてしまう偏屈な一面がある、いわば頑固者だ。

彼に呼ばれ、妻の身の回りの世話をしているステラがやってきた。


「来るのが遅いぞ。すぐに夕食へご案内するんだ」


彼女はスーサンの方をチラッと見るが、何も言わない。

ステラは出迎えの挨拶をして顔を上げると真っ直ぐに私を見て、

食事の前に妻のメアリと、子供たちを安心させてやって欲しいと促した。


「そうか。先ず妻と子供に顔を見せるとしよう、ありがとうステラ」


一礼するとステラは厨房へ戻っていく。

気配りができて娘たちの面倒見も良く、年若い娘で働き者だが少し、

無愛想に思えるところがあり、生真面目なスーサンとは口論になることもある。


寝室の扉を軽く叩く。やや間があって応答があり、妻のメアリが顔を見せた。


「やあ、メアリ。遅くなってすまない。子供たちはもう寝ているのかい?」


問いかけに頷いて、メアリは部屋に戻ってストールを羽織って出迎えてくれた。


「遅いお帰りでしたのね。しばらく前まで子供たちは待っていましたけれど」


娘たちが駄々をこねるので寝かしつけるのに手を焼いたと、愛しい妻は微笑む。


「実は、大事な仕事を仰せつかった。しばらく家を空けることになる‥‥」


傍を歩くメアリが、いきなり腕を掴んだので持っていた燭台を落としかけた。

驚いて彼女を見ると愕然として青ざめた顔に、私はさらに驚いた。

三年前に御義父君を亡くして以来である。

これほど狼狽える妻は珍しく、取り乱したところは見たことがない。


「五、六日ほどの間だよ。神殿騎士隊の護衛も付いている、大丈夫だ」


できる限り宥めてはみたものの、彼女はまるで幼子のように泣く。

騒動に気づいたのだろう、スーサンとステラが階下から心配そうに見ている。


‥おおっと‥‥困ったことに娘たちも起きてきてしまったようだ‥。


娘たちは泣き腫らす妻のもとに集まり、彼女を庇って口々に私を罵った。

‥普段から、あまり構ってやれていないこともあり‥すっかり悪人である‥。

すかさずステラが割って入り、娘たちを抱きかかえて部屋へ運ぶ。

(‥助かった‥‥)

自然と安堵の息が漏れてしまう。

情けないが娘たちの世話はステラが一番うまく、私とスーサンは拙い。

スーサンにお茶を淹れて持ってくるように頼んで、

妻を落ち着かせるために肩を抱いて寝室へ連れていく。

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マニ宝珠⑧ [小説「マニ宝珠」]

各政務庁の方策がまとまり、会議は閉会した。

ルナンサンはアルマラカルでの商談について、
取引の目録ができるまで敷地内で待つこととなった。

メルチェコ司教と、セルジオに続いて、
不機嫌な様子のファフロベティウスが退室するのを見送る。

幾人かの政務官らは分担を取り決めるため、別室に移動していく。

セルジオから指令を受けた者たちは、慌ただしく総督府を後にした。

ルナンサンは、ため息をついて席を立つ。

何か気を紛らわせるものはないものか、窓の外を見ても暗闇ばかり。


(‥はあ。不安で落ち着いていられぬ‥‥)


城の外では何が待ち受けているかわからない。

そもそも。結界と呼ばれる魔術の障壁を越えて、
アルマラカルへ向かうのは自分たちが初の試みになる。

平時なら、旅商人の荷馬車に銅貨五枚も握らせてやれば、
中継地であるクルルゥクの宿場まで日暮れには着く。

駅馬車に乗り換え、アルマラカルへは のんびりと三日くらいの行程だ。

ほんの三日だが、馬車の旅は左右に大きく揺られ、不快極まりない。

それでも、仕事であっても旅の楽しみは多い。

行きつけの酒場の喧騒と、名物の腸詰めと蜂蜜酒が頭に浮かぶ‥‥。

今度の責務は重い。加えて、命の危険も考えられる。


‥‥気が重い。



「大丈夫かね?」


ふいに声を掛けられて、振り返ってルナンサンは驚いた。

声の主は供の者に付き添われたメルチェコ司教である。


「驚かせてしまったかな。まあ、畏まることもあるまい」


にこやかに笑みを浮かべるメルチェコ司教は庭木の話を振る。

家族への質問に答えながら付き添ううちに、セルジオの執務室に着いていた。


「お話ありがとうございます。それでは、私はこれで‥‥」


ルナンサンは気遣いに礼を述べて、
その場を離れようとするのを司教が呼び止めた。


「これから、セルジオ殿と大事な話があるのだが‥」


自分にも関わる話なので同行するようにと、言葉を続けて手招きした。


「わかりました。ぜひ話をお聞かせください」


司教に話しかけられた時から予感はあった。

会議では何も説明がなかったが、魔術に関して詳しく話をされるに違いない。

畏まるルナンサンの肩に手をかけて労うと、司教は供の者へ取次ぎを指示した。

すぐに執務室から応答があり、扉の中へ通される。


「多忙なところご苦労だが、其方と彼にも話をしておきたい」


セルジオは頷いて、先ほどの会議で口添えを頂いた謝意を述べた。

供の者が手際よく椅子を持ってきて、
ルナンサンと司教の側に置くと一礼して退室する。

セルジオに促され、椅子に腰を掛けると司教が話を始めた。


「うむ。早速だが此度の事態は、極めて深刻である」


会議の席では余計な不安を与えないように発言を控えたのだと続けて、

司教は魔術士が城内に使い魔を放ち、様子を窺っていると明かした。


「聖堂は政務官らと連携して、市民の混乱抑止に協力を惜しまぬ」


セルジオが謝意を述べ、窮乏する貧困者への恵与を願い出る。

司教は頷いて、共に力を合わせていくことに同意した。


「本題に移るが、城を覆う結界を破る為には私を含め、
 聖堂にいる全ての聖職者の霊力を込めた“魔除け”を用意しよう」


魔除けに退魔の力は無いが、淀んだ魔力を相殺できる代物だと言う。


「今ある結界が破られれば、魔術士は直ぐに対応に動くだろう」


司教は襲撃を危惧して、セルジオの騎士団からも護衛を出すように求める。

セルジオは了承して、二名の騎士と三名の見習いの随行を約束した。

ルナンサンにとってもセルジオ直近の騎士が加わったのは大きな好事だ。



メルチェコ司教は推測であると前置きして話を続ける。


「仮に魔術士の狙いが、強請や示威的な性質のものでなければ‥‥」


魔術士は更なる儀式の準備に必要な贄を求め、
結界の外で救援に入ってくるものを待ち構えているだろうと語った。


話を聞いていたルナンサンは青ざめる。

顔面蒼白で見つめるルナンサンの様子を、
気づいた司教は少し困った顔をして他言無用である事を付け加えた。


「最後に話すのは、屍霊を操る魔術について知っていることだ」


メルチェコ司教の表情が陰り、悪魔の存在について話が及ぶ。


・・・


生命は器である肉体に留まる活力を失うと、
霊魂が肉体から離れ、抜け殻の肉体は朽ちて土に還る。

たとえ精霊、悪霊を憑かせたとして自然の摂理には如何な力も抗えぬ。


セルジオが首肯し、ルナンサンは耳を傾ける。

メルチェコは少し間を置いて、
宇宙には星の数ほどの異なる摂理が存在するのだと語ったうえで、

「異界‥即ち我々のいる世界の外に存在し、
 悪魔と呼ぶモノを喚んで、この世界を歪める力の法が“魔法”である」


そして魔法の力が具現化したのを指す言葉が“魔術”と言うと話した。


「魔術を止める手段はないのでしょうか?」


セルジオがメルチェコに質問した。

メルチェコは有ると答え、“魔力”と魔術の仕組みについて語る。


「この世界の摂理に則る聖職者の奇跡と違い、
 魔術を揮うには異界の摂理に則った魔力を必要とする」


歪みが生じても、この世界の摂理によって歪みは修正されるのだと話す。

司教は魔術に用いる、魔力の行使にも制約がかかると説明を続ける。


屍霊術は霊魂が抜けた肉体に、魔物を憑りつかせて使役できる魔法だ。

この魔術は媒介として、新鮮な動物の死体を必要とするのだと話し、


「四、五日も過ぎれば死体は腐敗から形を失う。
 憑いていた魔物は死骸から離れざるを得ず、ただの骸に戻る」


なるほどと、セルジオは少し考えてからメルチェコ司教に尋ねた。


「アルマラカルを動かすためには、教会の働きかけが必要です」


メルチェコ司教は満足そうに微笑むと、挨拶を済ませて部屋を後にした。


「司教様も、閣下と同じく持久戦をお考えでしょうか?」


そうだと、セルジオは答えて大聖堂の前で出陣式を執り行うと言う。

市民の動揺を抑えて耐え凌ぐのに士気高揚のためだと明かした。

また、アルマラカルの援軍は不可欠であるので、

「司教はファフロベティウス卿に書簡を持たせるだろう」


執務室の扉が軽く叩かれ、セルジオに促されて補佐官が入室する。

取引の目録を受け取ったルナンサンは家路についた。

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