マニ宝珠⑱ [小説「マニ宝珠」]
カーン カラーン カラカラーン カラーンカラーン カラーン ‥‥
一日の始まりを告げる鐘を頼りに市民は朝を迎えた。
昨晩の残りのパンとお茶の簡素な食事を済ませ、
支度を整えたルナンサンは、一時の別れに言葉を交わす。
「外は空気が悪いから、私はここで見送ります」
メアリが歩み寄って、ルナンサンの胸に頬を寄せる。
心配ない。必ず戻るので、気に掛け過ぎないように‥と、
愛する妻の額に接吻して励ました。
「いってらっしゃいませ、旦那さま。また後程‥」
娘たちが燥いで二人に気苦労をかけるのを詫び、
重ねて留守中の家事と子守りを頼んだ。
肩に担いで、決して手を離しませんよとスーサンは胸を張る。
スーサンの娘たちの扱いに不満がありそうなステラは、
もの言いたげな顔をしたが、お任せくださいとだけ答えた。
「総督に相談しておくので、困ったことは使いの方に頼んでくれ」
…
総督府の敷地に入ったルナンサンは、すぐに異変を感じとる。
すれ違う騎士の数が普段より多く、慌ただしい。
何事かと聞けば、総督府でささやかな出立式が執り行われるという。
しばらく待つことになったが、セルジオに面会が叶った。
挨拶もそこそこに用件を尋ねるセルジオは平時の簡素な軍服から、
甲冑に家紋入りの外套の正装の出で立ちで、威厳に満ちていた。
セルジオの威風に気圧されつつもルナンサンは口を開く。
「これより任務に赴くのですが‥」
留守の間に城で切迫した事態になった時は‥、
残された家族の後事を頼みに伺いましたと首を垂れる。
セルジオは食糧に不安があるのは事実として、
「そなたらが戻るまで、秩序や医療に些かの憂うところはない」
心配は要らぬと答えた上で、ルナンサンの憂慮には理解を示す。
家族の様子は部下に見に行かせると合意を得られた。
安堵して礼を述べるルナンサンの旅支度を見て、
いささか不安に思ったセルジオは手持ちの防備を尋ねる。
「剣技はおろか、護身の武術なども心得はありませぬ‥‥」
防具などは身に着けておらず、武器といえば蔦を刈る鉈を持参したと、
真剣な顔で答えるので‥セルジオは部屋に飾られた所蔵物に目を移す。
「ふむ。腰鉈一振りでは心細いだろう、これを持て」
壁に飾られた剣の中から、短剣を手に取ってルナンサンに手渡した。
「よいか。家族を思うのなら、必ず生きて戻るように」
朱国の意匠を凝らした見事な彫刻の鞘。
鍔から柄頭にかけて設えた、拳を護る蛇の装飾も美しい。
剣自体は成人を祝う儀礼用の鈍らな刃であるから人は斬れないとのこと。
死神を退かせる“聖別” を与えられた初陣に携える御守りだという。
心遣いに重ねて礼を述べて退出しようとするルナンサンへ、
「正式な騎士とは認められないが、家族への土産話に良かろう」
セルジオの計らいで、出立式に加わることが認められた。
…
選抜された騎士とルナンサンの前に喇叭の合図で、セルジオが姿を見せる。
セルジオの訓示を受け、騎士の代表が宣誓する。
同行する騎士も声を揚げて忠孝両全の誓いを立てた。
次にセルジオの家門をあしらった旗と剣が手渡される。
二つは彼らの身分の証と通行許可証になり、領内を移動できるのだ。
メガロポリスを出て、近隣都市を往訪するのは初めてではないが‥。
ルナンサンは失くさぬよう、懐にしまい込んだ書類の再度確認をとった。
成り行きといえど‥これほど緊張する出立というのも初めてだ‥。
当直の騎士らが整列して見送る中を、
セルジオを先頭にしたルナンサンら一同は総督府を出て聖堂へと向かう。
総督府の出立式と同様に、聖堂では神殿騎士隊の出立式が行われていた。
出陣式は、教会に所属する神殿騎士隊のための儀礼だ。
ルナンサンらは聖堂の外で待機して、続く観兵式典から参列する。
このような内幕にも、ルナンサンには初の経験であるから感心しきりだ。
正規の騎士であっても、観兵式の行列に加わるのは持ち回りではない。
軍士官を除けば、坐国王の近衛騎士入隊に次ぐ名誉なことだ。
そう語る騎士見習いの青年に緊張した様子はなく、
むしろ嬉しそうで興奮を抑えきれないといった感じである。
名前を尋ねてみた。
「騎士見習いのマデュークです。微力ながら道中お護りします」
…
楽隊が現れて楽器の調子を合わせ始めた。
やがて神殿騎士の従者が、続々と主人の馬を曳いて列に並ぶ。
周囲の慌ただしさにルナンサンの心は忙しなく、どうにも落ち着かない。
騎士隊長を窺うが慌てる素振りはない。
‥うむむ。行進の始まる前に気疲れしてしまいそうだ。
正午を告げる鐘が響く中、聖堂前で動きがある。
ファフロベティウスと主だった神殿騎士らに続いて、
セルジオとメルチェコ司教と修行僧たちが建物から出てきた。
側にいた騎士達が立ち上がり整列したのを見てルナンサンは、
自分も列に並ぼうとしたところをマデュークに止められてその場に控える。
設けられた壇上にセルジオが立ち、断固戦う決心を表す。
「そなたらは邪悪な誘惑に抗い危険を冒しても、勇気をもって進み、
メガロポリスの市民のため聖軍を連れて戻る使命に赴くっ!」
一名一名、名前が呼ばれ、役職のある者は家族も称えられた。
任命を受けた団長のファフロベティウスが壇上で決意の言上を述べて、
最後にメルチェコ司教が、老齢を感じさせぬ覇気で激励した。
「皆、今日ここに集う戦士の勇気を称えよ。勇姿を見送り旅の無事を日々祈れ」
「彼らの旅路に、神のご加護あらんことを。坐王国とメガロポリスに祝福あれ!」
団員となったルナンサン一同は声を張り上げ気勢を上げる。
「「邪悪に立ち向かい、必ずや使命を果たし戻って参りますっ!」」
神殿騎士団の旗手とセルジオの旗印を掲げた兵士を先頭に、
ファフロベティウスら神殿騎士隊と、ルナンサンたち一団は大通りへ出ていく。
隊列を整え、喇叭の合図で楽隊が音楽を奏でると行進が始まった。
わあっと、聖堂の外に集まった群衆からは大きな歓声が起こる。
篝火と松明で照らされた大通りを多くの市民が詰めかけ、紙吹雪が舞う。
人々は口々に見知った団員の名を呼んで声援を送った。
思っていた以上の感激を覚え、ルナンサンは踊りだしたいほどだ。
湧き上がる高揚感に、市民らの振る手に応えながら家族の姿を探す。
大聖堂から出立し行進する団員達へ、
歓呼と手を振る市民の行列は延々と、途切れることなく続く。
一日の始まりを告げる鐘を頼りに市民は朝を迎えた。
昨晩の残りのパンとお茶の簡素な食事を済ませ、
支度を整えたルナンサンは、一時の別れに言葉を交わす。
「外は空気が悪いから、私はここで見送ります」
メアリが歩み寄って、ルナンサンの胸に頬を寄せる。
心配ない。必ず戻るので、気に掛け過ぎないように‥と、
愛する妻の額に接吻して励ました。
「いってらっしゃいませ、旦那さま。また後程‥」
娘たちが燥いで二人に気苦労をかけるのを詫び、
重ねて留守中の家事と子守りを頼んだ。
肩に担いで、決して手を離しませんよとスーサンは胸を張る。
スーサンの娘たちの扱いに不満がありそうなステラは、
もの言いたげな顔をしたが、お任せくださいとだけ答えた。
「総督に相談しておくので、困ったことは使いの方に頼んでくれ」
…
総督府の敷地に入ったルナンサンは、すぐに異変を感じとる。
すれ違う騎士の数が普段より多く、慌ただしい。
何事かと聞けば、総督府でささやかな出立式が執り行われるという。
しばらく待つことになったが、セルジオに面会が叶った。
挨拶もそこそこに用件を尋ねるセルジオは平時の簡素な軍服から、
甲冑に家紋入りの外套の正装の出で立ちで、威厳に満ちていた。
セルジオの威風に気圧されつつもルナンサンは口を開く。
「これより任務に赴くのですが‥」
留守の間に城で切迫した事態になった時は‥、
残された家族の後事を頼みに伺いましたと首を垂れる。
セルジオは食糧に不安があるのは事実として、
「そなたらが戻るまで、秩序や医療に些かの憂うところはない」
心配は要らぬと答えた上で、ルナンサンの憂慮には理解を示す。
家族の様子は部下に見に行かせると合意を得られた。
安堵して礼を述べるルナンサンの旅支度を見て、
いささか不安に思ったセルジオは手持ちの防備を尋ねる。
「剣技はおろか、護身の武術なども心得はありませぬ‥‥」
防具などは身に着けておらず、武器といえば蔦を刈る鉈を持参したと、
真剣な顔で答えるので‥セルジオは部屋に飾られた所蔵物に目を移す。
「ふむ。腰鉈一振りでは心細いだろう、これを持て」
壁に飾られた剣の中から、短剣を手に取ってルナンサンに手渡した。
「よいか。家族を思うのなら、必ず生きて戻るように」
朱国の意匠を凝らした見事な彫刻の鞘。
鍔から柄頭にかけて設えた、拳を護る蛇の装飾も美しい。
剣自体は成人を祝う儀礼用の鈍らな刃であるから人は斬れないとのこと。
死神を退かせる“聖別” を与えられた初陣に携える御守りだという。
心遣いに重ねて礼を述べて退出しようとするルナンサンへ、
「正式な騎士とは認められないが、家族への土産話に良かろう」
セルジオの計らいで、出立式に加わることが認められた。
…
選抜された騎士とルナンサンの前に喇叭の合図で、セルジオが姿を見せる。
セルジオの訓示を受け、騎士の代表が宣誓する。
同行する騎士も声を揚げて忠孝両全の誓いを立てた。
次にセルジオの家門をあしらった旗と剣が手渡される。
二つは彼らの身分の証と通行許可証になり、領内を移動できるのだ。
メガロポリスを出て、近隣都市を往訪するのは初めてではないが‥。
ルナンサンは失くさぬよう、懐にしまい込んだ書類の再度確認をとった。
成り行きといえど‥これほど緊張する出立というのも初めてだ‥。
当直の騎士らが整列して見送る中を、
セルジオを先頭にしたルナンサンら一同は総督府を出て聖堂へと向かう。
総督府の出立式と同様に、聖堂では神殿騎士隊の出立式が行われていた。
出陣式は、教会に所属する神殿騎士隊のための儀礼だ。
ルナンサンらは聖堂の外で待機して、続く観兵式典から参列する。
このような内幕にも、ルナンサンには初の経験であるから感心しきりだ。
正規の騎士であっても、観兵式の行列に加わるのは持ち回りではない。
軍士官を除けば、坐国王の近衛騎士入隊に次ぐ名誉なことだ。
そう語る騎士見習いの青年に緊張した様子はなく、
むしろ嬉しそうで興奮を抑えきれないといった感じである。
名前を尋ねてみた。
「騎士見習いのマデュークです。微力ながら道中お護りします」
…
楽隊が現れて楽器の調子を合わせ始めた。
やがて神殿騎士の従者が、続々と主人の馬を曳いて列に並ぶ。
周囲の慌ただしさにルナンサンの心は忙しなく、どうにも落ち着かない。
騎士隊長を窺うが慌てる素振りはない。
‥うむむ。行進の始まる前に気疲れしてしまいそうだ。
正午を告げる鐘が響く中、聖堂前で動きがある。
ファフロベティウスと主だった神殿騎士らに続いて、
セルジオとメルチェコ司教と修行僧たちが建物から出てきた。
側にいた騎士達が立ち上がり整列したのを見てルナンサンは、
自分も列に並ぼうとしたところをマデュークに止められてその場に控える。
設けられた壇上にセルジオが立ち、断固戦う決心を表す。
「そなたらは邪悪な誘惑に抗い危険を冒しても、勇気をもって進み、
メガロポリスの市民のため聖軍を連れて戻る使命に赴くっ!」
一名一名、名前が呼ばれ、役職のある者は家族も称えられた。
任命を受けた団長のファフロベティウスが壇上で決意の言上を述べて、
最後にメルチェコ司教が、老齢を感じさせぬ覇気で激励した。
「皆、今日ここに集う戦士の勇気を称えよ。勇姿を見送り旅の無事を日々祈れ」
「彼らの旅路に、神のご加護あらんことを。坐王国とメガロポリスに祝福あれ!」
団員となったルナンサン一同は声を張り上げ気勢を上げる。
「「邪悪に立ち向かい、必ずや使命を果たし戻って参りますっ!」」
神殿騎士団の旗手とセルジオの旗印を掲げた兵士を先頭に、
ファフロベティウスら神殿騎士隊と、ルナンサンたち一団は大通りへ出ていく。
隊列を整え、喇叭の合図で楽隊が音楽を奏でると行進が始まった。
わあっと、聖堂の外に集まった群衆からは大きな歓声が起こる。
篝火と松明で照らされた大通りを多くの市民が詰めかけ、紙吹雪が舞う。
人々は口々に見知った団員の名を呼んで声援を送った。
思っていた以上の感激を覚え、ルナンサンは踊りだしたいほどだ。
湧き上がる高揚感に、市民らの振る手に応えながら家族の姿を探す。
大聖堂から出立し行進する団員達へ、
歓呼と手を振る市民の行列は延々と、途切れることなく続く。
2021-04-18 06:07