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目覚めたらワイは〇〇だた [創作雑録集]

こちらの記事では歴史的しくじりを魅せる人物の紹介と、

なろう系アルアルの転生主人公が歴史大逆転するのに相応しい?

大大大ピンチだったり(笑)、歴史の転換点を記録します。〆(・ω・o)



リアルに幻滅★或いは順応できずに悩む方は多いだろう。

【朗読】最凶のクソゲー「人生」のチートコード解析スレ
https://www.youtube.com/watch?v=59pC3CKVLi8

それ故に自分が主人公、英雄譚・ロマンス・魔法冒険・仲魔奇譚は面白い。

過去に遡ればチャンスがあるんじゃないかと考える事(ワイや)もあろうが、
歴史を知れば知るほど、憧れなんて幻滅(笑)した方は多かろう。

古代ローマ「底辺庶民の悲惨な生活」古代ローマが面白い
https://www.youtube.com/watch?v=qtvY0TBkjvA
コメ欄より
人類社会ver.21.0。
このバージョンしかプレイしてないとクソゲーそのものなんだけど、
サービス開始から見てみると随分プレイ環境改善したし神アプデだわ。
プレイ人口増えてサーバーも安定したし、
運ゲー要素強いけど前よりなんとかなる。
前は戦争イベント(スキップ不可)で強制リタイアとかあったし‥


あれ?最新環境でも攻略できない俺、もしかして人類向いてないのでは‥‥?


日本鯖はガチャ大当たりEASYモードの鯖だゾ。( ̄ω ̄)

宝鐘マリンさんも「できることは何でもやった」と述べておる。さて置き、

創作において世界観は特に重要で、

主人公パーティは初めから無双している物語よりは問題児ばかりで、

いつもピンチで苦労している物語の方が受けがいいようだを。



2021-12-07
「貞観政要」という、唐の太宗と臣下達との政治に関する言行を記録した書物

「太宗、嘗(かつ)て侍臣に謂(い)ひて曰く、
 夫(そ)れ銅を以て鏡と為せば、以て衣冠を正す可(べ)し。
 古(いにしへ)を以て鏡と為せば、以て興替(こうたい)を知る可し。
 人を以て鏡と為せば、以て得失を明かにす可し。
 朕(ちん)常に此の三鏡を保ち、以て己が過(あやまち)を防ぐ」
『貞観政要』巻第二任賢第三第三章

以下訳、あるとき太宗は侍臣たちに語った‥

『いったい銅を鏡とすれば(姿を映して)人の衣冠を正すことができる。

 昔を鏡とすれば(歴史によって)世の興亡盛衰を知ることができる。

 人を鏡をすれば(その人を手本として)善悪当否を知ることができる』


この後の太宗は続けて、

朕は常にこの三つの鏡を持って自己の過ちを防いでいた。

怖じ恐れることなく諫言してくれた魏徴(三つ目の鏡)を亡くしてしまった今は

執政に善し悪しを正す者がおらんなった~(泣)。・。゚<゚ノД´>゚。・

朕が為さんとすることだって過ちはあるんやから、

おめーら誠心をもって朕に尽くし、意見することを躊躇うなよ、絶対欺くなよ。


※朕=国家である。
 国=朕におまいら誠心誠意尽くして当然だよねってのが根本にある発言。


3つの鏡とは、

・鏡に自分を映し、佇まいを意識し公明正大な振る舞いができているか(銅の鏡)

・過去の出来事からでしか将来を見通す術はないので、歴史を識る(歴史の鏡)

・部下の厳しい直言や諫言を受け入れる度量を具える(人の鏡)

特に3つ目、
今の自分・歴史・第三者の厳しい意見を知ることは国主に不可欠と説いている。


(´・ω・`) 『十二国記』でも陽子が度々言ってるが‥、

国主が国の現状を把握せず奸臣の思うように国を動かしていれば、

簡単に風紀は廃れる。「国が傾けば麒麟が病む。麒麟が死ねば王もタヒぬ」

日本では国勢調査を実施して把握に努めている。さて、隣国は‥?



2021.09.22. 追記

【しくじり戦国大名 蘆名家】
先ずは光栄様の「信長の野望」織田信長誕生前の蘆名家の簡単な紹介を。

蘆名盛高(1448?~1517)蘆名家13代当主。
伊達家とは婚姻関係にあり、伊達家内紛の際は兵を出して介入している。

蘆名盛滋(1482~1521)蘆名家14代当主。
1500年19歳の初陣で父・盛高と共に蘆名家に抵抗した猪苗代盛頼を討った。

1505年、盛高と対立して重臣・松本氏の支援を受け合戦に及んだが敗れる。

姻戚関係である伊達尚宗の下に亡命したが、翌年には和解し蘆名家に帰参。

1518年に盛高の死去により家督を相続。

1520年には最上家の家督に軍事介入していた伊達稙宗の援軍として、
上山城主・最上義房と戦った。

翌年2月に死去。実子・盛幸は針生氏を継いで弟の盛舜が十五代当主になる。

と。まずはここまでが蘆名家、勃興のバトンリレー。

( 'ω')a この頃の蘆名家は、近江国の浅井家と同じくらい難易度高いね。


蘆名盛舜(1490~1553)奥州蘆名氏 第十五代当主。
内に同族の反乱、外周では白河・二階堂・岩城氏らと合戦が相次ぐ。

度々危機に見舞われるも所領を維持しつつ、猪苗代家の反乱を鎮定。

伊達稙宗の葛西家攻めに協力、また岩城・白河結城家と戦う。

事実上の会津守護職としての姿勢を取り、奥州での地盤を固めた。


蘆名盛氏(蘆名止々斎)1521~1580

政治86 武勇71 統率79~87 知略85\_( ˘•ω•˘ ) 統率もっと盛ってもろて。

奥州蘆名家16代にして中興の祖。
同盟戦略を巧みに使い、会津一円から北越後に及ぶ版図を築く。

蘆名家は伊達家と並ぶ奥州屈指の大名となる。

盛氏の存命中に日ノ本統一だ。(´・ω・)ノ (•̀ω•́ )ゝ 伊達家は養分(笑)。

‥最上家も他家を笑えんが、蘆名家の没落はここからよ。。(´・ω・`)


蘆名盛興(1547~1575)蘆名家17代当主。
盛氏の嫡男。父・盛氏の隠居により家督を継ぐ。

横田氏攻略などを経て佐竹氏と抗争中、酒毒(アル中?)にて夭逝。


蘆名盛隆(二階堂盛隆)1561~1584
会津・須賀川城主の二階堂盛義が人質として蘆名氏の黒川城に出されていた。

当主盛興が夭逝した為、盛興の後室を娶って会津・蘆名氏18代当主となる。

上杉氏との関係が疎遠になると、
新発田重家を支援するなどし蘆名氏勢力の健在を示すが‥‥

蘆名止々斎の死去により、家督の正統性を問題視する家臣の不満が再燃。

1584年、松本・栗原氏による謀反されたが、これは鎮圧する。

同年、奪取し返した黒川城内にて、寵臣の大庭三左衛門に殺されたアー♂

『新編会津風土記』は大庭三左衛門が盛隆を襲った理由について、
男色のもつれが原因と記している。

『武功雑記』などには、男色絡みの逸話がいくつか残されている。


【戦国ちょっといい話・悪い話まとめ】より
蘆名盛隆の麾下であった二本松義継の小姓に非常に美麗な者があり、

盛隆はこれを貰い受けたいと伝えたところ義継は、

「あの小姓は随分甲斐甲斐しいのだが、
 悪しき所もあり、やめたほうが良いと思います」と答えた。

盛隆は義継があの小姓を手放すことを惜しんで、
そのよう事を言うのだと思い不満を漏らした。

しかし義継としては惜しむような気持ちは一切なかったので、

「そこまで思われているのなら」と、かの小姓を盛隆の元へ遣わした。

盛隆は2,3年はこれを寵愛したが次第に疎となり、

またこの小姓の噂を、近侍の医者に色々と申し聞かせ、

この医者がさらにこの事を様々に語った。これをかの小姓は深く恨んだ。

ある時、蘆名盛隆は鷹を据えて縁の柱に寄りかかり、

近くの者たちにこれを見せていた所、かの小姓が通りかかった。

盛隆は小姓の名を呼び、「お前もこの鷹を見よ」と進めた。

小姓は「心得候」と返事をするや、
刀を抜いて盛隆を二刀斬りつけるとそのまま走り去った。

この時盛隆の周りには武士が5,60人居たのであるが、

皆狼狽えたのか慌て、かの小姓を討ち止める者は居なかった。

小姓はさらに噂を広めた医者の所へ向かい門を走り抜けようとした所、

門番が不審に思い彼を止めた。

そこに追手の者達が追いつき、小姓を討ち取ったという。

(老士雑談)


蘆名盛隆 信長の野望天下創世
https://www.youtube.com/watch?v=j_GJW79e_ck
政治56 武勇62 統率65 知略51\_(・ω・)

光栄様は低評価を付けているが(笑)、
蘆名止々斎の存命中は補正+15~20は付与されておるとみた。

同盟戦略を駆使して常陸の佐竹家とも争っているし、
上杉重臣の直江兼続による家臣の反抗に対処できているから無能ではない。


┌( ´=ิ◞౪◟=ิ`┐ )┐三 無能ではない‥と思う。ヽ('A`ヽ) 殿オ~‥

《蘆名盛隆タイムライン》
永禄4年(1561年)須賀川二階堂氏7代当主・二階堂盛義の長男として誕生。

生母は伊達晴宗の娘である阿南姫。
伊達晴宗は蘆名盛高の外孫であるため、盛隆は蘆名盛高の玄孫に当たる。

永禄8年(1565年)父・盛義が蘆名盛氏に敗れて降伏した際、
人質として会津の盛氏の許に送られた。\_(・ω・) 徳川家康に倣うのだ!

天正3年(1575年)に蘆名氏17代当主・蘆名盛興が継嗣を残さずに早世する。

盛興の後室・彦姫を娶り、盛氏の養子となって18代当主となる。

天正8年(1580年)の盛氏の死去により実権を掌握した。


蘆名家当主となった盛隆は父・盛義と共に、
蘆名氏の軍事力を用いて、衰退していた実家の二階堂氏の勢力回復に務める。

元は二階堂氏からの人質であった盛隆の振る舞いに対して、
反感を抱いた家臣による反乱が度々起こった。

上杉景勝は新発田重家の支援に対抗するため、蘆名家中の撹乱を狙う。

命を受けた重臣の直江兼続は、
富田氏実や新国貞通などの重臣達を調略し、蘆名氏に揺さぶりをかけた。


天正12年(1584年)6月に盛隆が出羽三山の東光寺に参詣した隙を突かれ、
栗村盛胤・松本行輔らに黒川城を占拠されたが、盛隆はこれを素早く鎮圧。

翌月には長沼城主の新国貞通(栗村の実父)を攻めて降伏させた。

同年10月6日。
黒川城内で寵の衰えを逆恨みした大庭三左衛門に襲われて死亡。享年24。

家督は亀王丸の母である彦姫の兄・伊達輝宗の後見を受けることで、
生後1ヶ月の息子・亀王丸が継ぐ。

しかし、輝宗の本音は自身の息子である小次郎の擁立であったとされる。

亀王丸の擁立は常陸の佐竹義重の介入によって実現したものであった。

蘆名家中に於いては佐竹氏の影響力が拡大、伊達氏の影響力は弱体化を招く。

有力大名である盛隆の死去後の家中の混乱を見て、
介入した佐竹義重と伊達輝宗は自身の隠居を早めることになった。

輝宗の跡を継いだ政宗は同盟関係を破棄して蘆名氏を攻める(関柴合戦)。

亀王丸も天正14年(1586年)に疱瘡を患って夭逝し、蘆名家中は混迷を深めた。



盛隆と徳川家康との大きな違いは家臣団の結束にある。

当然だが蘆名家に恩顧があるのであって、二階堂家に従う義理はなかった。


盛幸が継いだ針生家は存続。
針生 盛信(はりゅう もりのぶ)天文22年(1553~1625年)

戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。
父は針生盛秋。子に盛直、実信。民部。


《奥州蘆名氏の命運》
蘆名義広→盛重→義勝(佐竹義広/白河義広)1576~1631

奥州蘆名家20代にして最後の当主。

佐竹義重の次男で、白河結城家の養子であったが、
蘆名盛隆の養女を娶り蘆名家を継ぐ。

蘆名家臣らをまとめられず、
伊達氏との摺上原合戦に大敗。20~119名の従者を連れて常陸に逃奔した。

秀吉から常陸龍ヶ崎に4万石、
次いで江戸崎に4万5,000石を与えられ「盛重」と名を改める。

慶長7年(1602年)。義宣・義重とともに秋田領に入り名を義勝と改める。

仙北郡角館に1万6,000石を与えられた。


(´・ω・`) チート伊達政宗に加え、上杉景勝の奥州侵攻で詰みです。。




【三国志「濮陽の戦い」呂布奉先、曹操孟徳 不在の兗州を奪う】

興平元年(194年)徐州攻略に乗り出した曹操の不在の隙に、
陳宮と張邈(陳留太守)が謀って、荀彧と程昱、夏侯惇が守る本拠地の鄄城県、
他2県を残し呂布を東郡・濮陽県に迎え入れ太守として兗州を乗っ取った。

呂布は鄄城県を落とせず、曹操の遠征軍が帰還してしまう。
対峙した曹操も連合軍に決定的な勝利を得ず、兵糧不足から両陣営は停戦。


( 'ω')a 精鋭兵も数を減らし、蝗害を食って軍の増強も困難だったと思う。


翌年「定陶の戦い」に於いて、曹操を破る最後の機会を棒に振った呂布は、
張邈と共に徐州の劉備を頼って兗州から撤退する。

兗州の郡県は続々と陥落。張邈の弟、張超の守る雍丘もついに陥落した。
袁術へ使者に立った張邈は部下に殺害されてしまう。。

《張邈 孟卓》
呂布と陳宮の逸話は三国志で有名なので割愛するとして、

陳宮と同じく曹操と、さらに袁紹とも親密だった時期のある張邈 孟卓。

能力はまずまず。( 'ω')a 統率53 武力52 知力70 政治73 魅力82 

後漢末期に三公の府に召し出され、騎都尉に任命され189年、陳留太守に就いた。

朝廷を牛耳る董卓の台頭に反抗して、曹操と共に兗州一帯を拠点に兵を起こす。

司州から董卓を追い出したが、諸侯は各々の国に戻り軍備を拡充する。

この頃も各地で出没する黄巾の残党討伐・中原の覇権争いは既に勃発していた。

加えて、袁紹の陣営から呂布が兗州に流れてきたことで張邈の運命が変わる。。

曹操の唯一の友だった男「張邈」の生涯【ゆっくり歴史解説】
https://www.youtube.com/watch?v=W0Ktr0hU2QQ


【ラテン帝国のしくじりタイムライン】『世界の歴史まっぷ』より

1204年 フランドル伯ボードゥアン9世が、
5月16日に初代皇帝ボードゥアン1世として即位。

1205年 ラテン帝国軍、ブルガリア軍に敗北。ボードゥアン1世が捕虜となる。

1206年 ボードゥアン1世の弟アンリ・ド・エノーが皇帝に即位。

1216年 アンリが死去。ラテン帝国は以後衰退の一途をたどる。

1217年 アンリの後を継いだフランス人のピエール2世・ド・クルトネーは、
ローマからコンスタンティノポリスへ向う途中の、
アルバニア山中でエピロス専制侯国に捕らえられる。


゚ロ゚)ノδ ロ゚)ノδ ロ゚)ノδ 御用だ御用だ Σ(- -;;ノ)ノ


1225年 ニカイア帝国軍に大敗。小アジアの領土の大半を失う。

1261年 ラテン帝国軍はヴェネツィア海軍と共に、
黒海西岸へ遠征に出ている隙をつかれニカイア帝国軍に、
コンスタンティノポリスを占領され、最後の皇帝ボードゥアン2世は逃亡。

ここにラテン帝国は滅び、57年ぶりに東ローマ帝国が復活した。

パレオロゴス朝(1261~1453)の成立。\_(・ω・) ハイ、ココマデ

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